キラリと光る魅力が溢れるまち<千葉県匝瑳市>

匝瑳市(そうさし)の魅力は食、ふれあい、文化など多岐にわたる。そんなバラエティに富んだ匝瑳市を紹介したい。

 

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匝瑳市は九十九里浜に面しているため、新鮮な魚介類が堪能できる。こちらは「海めし」と称した海鮮丼。匝瑳市の南東側には安くて美味しく食べられるお店が軒を連ねている。魚をマヨネーズで和えた「おらい丼」(上)や10種類以上の具材がのった豪華な丼(下)などバラエティに富んでいる。

 

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「ふれあいパーク八日市場」は市民のみならず、県外のリピーターが多い人気施設だ。のどかな風景の中に佇むこの施設は、年間約120種類以上の商品が並ぶ。また、レストランでは地元ならではの郷土料理も味わえ、季節ごとのイベントも盛んに行われている。

 

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明治24年に開かれたロシア正教の教会「ハリストス須賀正教会(すかせいきょうかい)」。日本における女流作家の先覚者、「山下りん」が描いたイコン10面(県指定文化財)が所蔵されている。イコンとは、ギリシャ正教会やロシア正教会などの東方教会で礼拝の対象とした聖画像で、キリスト、聖母、聖者などを描いた板絵である。

 

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1998年、芸術家である「此木三紅大(このきみくお)」の住居とアトリエの一部を開放し設立された「松山庭園美術館」は多くの市民と観光客が訪れる人気スポット。自身が収集した名画、茶道具などが収蔵されている。四季折々の景色も楽しむことができ、庭の茂みや木の上に佇む猫たちが来訪者をもてなしてくれる。

 

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「八重垣神社」は素戔嗚尊(すさのおのみこと)をはじめ三神を祀る。豪華な彫刻が施された本殿は一見の価値あり。毎年8月に行われる祇園祭は300年以上の歴史を持ち、匝瑳市を代表する盛大な祭りだ。約20基の神輿が繰り出され「あんりゃどした!」と威勢のいいかけ声とともに練り歩く姿は勇壮だ。

 

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防風林として作られた「マキ塀」は匝瑳市内のあらゆる場所でみられる。最大のもので高さ約7m、長さ約80m、幅約2mもある。マキ塀の材料である「イヌマキ」は街路樹と生け垣では葉の密度が違うので、観察しながら散策するのも面白い。

 

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花見の名所として有名な「天神山公園」は、緑豊かな中でくつろげる公園として人気が高い。約500本(7種類)の桜が植えられている。展望台からは、太平洋や国の名勝及び天然記念物である「屏風ヶ浦」を望むことができる。

 

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長い歴史を誇る匝瑳市の伝統技術である「箕づくり」。約300年の歴史を持っている。国の重要無形民俗文化財に指定されており、木積(匝瑳市)の竹と藤を使って農耕用や製茶用に製作する。大正時代の最盛期には、年間約126,500枚が製作され、東京まで出荷されていた。「木積箕づくり保存会」による実演会や展示会が行われており、熟練の技を間近で見学することができる。

 

 

 

 

絹産業の中心地だった福島、春の花見山はまさに桃源郷
<福島県福島市>

福島市一帯は、旧信夫郡と旧伊達郡にまたがるので信達(しんたつ)地方と呼ばれる。小倉百人一首の「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」という歌の“しのぶ”は、この信夫という地名と忍ぶ恋をかけてある。文知摺(もちずり)とは、乱れ紋様をつくる染色技法で、当時の都人は遠い陸奥の風物に遥かなロマンを感じていたのではないだろうか。
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信達地方は、幕末から養蚕が盛んになり、戦前は福島盆地全体に桑畑が広がっていたという。いまや東北有数の桜の名所となった「花見山公園」も、もとは養蚕農家が副業として花を栽培したことに始まる。公園と呼ばれてはいるが、ここはいまも花卉園芸の畑(私有地)であり、地主の厚意により公開されているものである。畑なので、花の種類が多様で手入れも行き届いており、春にはまさに“桃源郷”と呼ぶにふさわしい。
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福島盆地は全国でも珍しく、盆地のまん中に、小山「信夫山」がぽっこり浮かんでいる。盆地が陥没したときの残丘だそうだが、この中腹にあるのが「岩谷観音」。平安末期~鎌倉時代に起源がある磨崖仏群である。
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信夫山の上には、ねこ神社こと「西坂稲荷」がある。昔ここに住んでいた悪さをする狐の伝説と、ネズミからカイコを守る養蚕の守り神=ねこが、いつしか結びついて「ねこ稲荷」と言われるようになったそうだ。いまは“ねこを幸せにする稲荷”として親しまれているので、ねこファンの人はぜひ訪れてみたい。
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ここ福島は、東北初の日本銀行出張所(のちに支店)が開設されたところ。それはここが、絹産業の中心地として、物資やカネが集積するとろだったからだ。その日銀支店長の役宅として昭和2年に建てられたのが、この「御倉邸」。かつての日本建築の雰囲気を楽しむことができる。
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養蚕王国だった福島は、戦後の絹産業衰退にともない、桑から果樹への転作が進み、いまは果樹王国といってもいい。なかでも桃は、山梨に次いで生産量が全国2位。桃といえば福島、当地を代表する名産品である。
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では、ちょっとローカル線の旅を楽しもう。ということで、福島交通の飯坂電車「いい電」に乗る。終点の二つ手前が「医王寺前」駅。「医王寺」は、当地を治めた佐藤氏の菩提寺で、安置される薬師如来は空海の作と伝わる。また、奥の細道の途次で「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」と、芭蕉がここで詠んだ句の碑もある。笈(僧が背負う木製の箱)は弁慶のもの、太刀は義経のものとして寺に伝わったもので、笈はいまも宝物殿に展示されている。
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「いい電」の終点は、「飯坂温泉」。温泉の起源は縄文まで遡るといわれ、ヤマトタケルがこの湯で癒されたという伝説もある。ほかにも、芭蕉はじめ、西行、正岡子規、与謝野晶子、ヘレンケラーなど、多くの文化人・有名人が訪れている。古くから東北を代表する温泉といっていいだろう。山中の秘湯も魅力があるが、こういう歴史的由緒のある温泉で、先人の業に想いを馳せてみるのもすばらしい。

上杉の城下町として発展した米沢、素晴らしい文化の魅力
<山形県米沢市>

イザベラ・バードが「日本奥地紀行」で、“アジアのアルカディア”と絶賛した豊かで美しい平野、その南の中心が米沢である。
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長井・伊達・蒲生・直江と城主がかわり、その後は上杉の城下町として発展してきた。城址は、いまは松が岬公園として開放されている。
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春には約200本の桜が咲き乱れる花の名所として市民に親しまれている。
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その公園の中央にあるのが、上杉謙信・鷹山を祭神として明治9年に建立された上杉神社。境内に上杉氏ゆかりの文化財を収蔵する稽照殿があり、隣には上杉博物館もある。
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財政の逼迫していた米沢藩を救った名君といえば上杉鷹山。鷹山は、まず「大検約令」によりムダを省くことから藩政改革を進めるが、それだけなら誰でも思いつくことで、その後の目覚ましい産業振興が歴史に名を残した理由だ。とくに「養蚕手引」を発行して、養蚕・絹織物を産業化した手腕は特筆に値する。
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濠を挟んで元二の丸跡にあるのが「旧上杉伯爵邸」。明治29年に建てられ、その後火災で焼失して、大正14年に再建された邸宅。その豪壮なつくりは一見価値がある。見学だけでなく、「かてもの」を受け継いだという当地の郷土料理がいただけるのがうれしい。「かてもの」とは、凶作の備えとして鷹山がつくった食のガイドブック。山野の草木・果実約80種の食法や栽培方法などが詳しく書かれており、飢饉の際に大きく役立ったという。
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市内に見られるこの「うこぎの生垣」も、その鷹山の知恵が生んだといわれる。うこぎは、春から初夏にかけての新芽を、おしたしや天ぷらにして食べることができる。いざという時の備えとして、生垣にも食材をという、鷹山の周到な発想力に脱帽!
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城址を背にして東へ向かうと、瀟洒な洋風の建物が見えてくる。「九里(くのり)学園高等学校」の校舎で、昭和10年の建造、いまも現役だそうだ。学園の創設者は、九里とみ。裁縫を教える塾が評判となり、明治34年県内でもっとも古い私立学校として開校された。「校舎はただの箱ではない、こういう教育をしたいというメッセージ」そう語る現校長の言葉に、米沢の深い文化を感じる。
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さらに東へ向かうと、「米沢織物歴史資料館」や「米澤民藝館」などがあり、その先にあるのが「東光の酒蔵」。銘柄「東光」を造る小嶋総本店は、慶長2年(1597年)創業、“禁酒令”が出されても酒造りが許された数少ない造り酒屋のひとつだったそうだ。東北一といわれる140坪の大きな土蔵に展示された、昔ながらの酒造りの道具などを見ることができる。
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さてこんどは少し西へ行くが、国史跡の上杉家廟所はぜひ見ておきたい場所。森閑とした杉木立のなかに、越後より移されたという謙信公から十二代藩主までの廟屋が整然と並んでいる。
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廟所の近くにある「染織工房わくわく舘」では、米沢織と紅花染めの体験ができる。
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直江兼続がはじめ、その後上杉鷹山が本格的な産業として確立した「米沢織」。養蚕や紅花栽培を奨励し、京都から織物師を招いて研究するなど、養蚕から染色・機織まで当地で一貫生産する伝統が培われた。ちなみに“日本で初めて”人工絹糸(レーヨン)を開発した帝人株式会社は、ここ米沢で産声を上げた会社。米沢は、古いものを大事にし、同時に新しいものをも生む、伝統文化の厚みが蓄積されたまちである。

さくらんぼの国・山形を散策、そして蔵王、山寺へ
<山形県山形市>

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城郭が霞で隠れて見えなかったので、「霞ケ城」あるいは「霞城(かじょう)」と呼ばれたという山形城。現在は二の丸など一部が残っているが、往時には全国でも有数の大きな城で、日本百名城にも選定され、国の史跡になっている。
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春には約1,500本の桜が咲き誇り、堀に覆いかぶさる姿は江戸城・千鳥ヶ淵のような美しさ、山形を代表する花の名所である。
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「文翔館」は、大正5年に県庁・県会議事堂として建てられた、大正期の洋風建築を代表する煉瓦造りの建物。国の重要文化財であり、現在は山形県郷土館として一般公開されている。
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さて山形といえば、いちばんに思い浮かべるのは“さくらんぼ”だろう。もちろん県別生産量では、山形が全国1位。横綱は佐藤錦だろうが、紅秀峰はじめたくさんの種類が栽培されており、現地で食べ比べてみれば、お気に入りの一品が見つかるかもしれない。
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餅の食べ方は、全国各地さまざまな特徴があるが、この「納豆餅」はかなり個性的だろう。つきたての餅に、納豆とネギとしょうゆだれ。シンプルだが、モチモチとネバネバの絶妙の組み合わせ。口中がヌル・モチ・ネバの食感で満たされる幸せ。
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某テレビ番組でも有名になった「冷やしラーメン」、発祥は市内のラーメン店・栄屋本店で、夏はラーメンも冷たいのがいいという客の要望で開発されたのだという。いわゆる“冷し中華”や“冷麺”とはまるでちがうもの。まさにラーメンの冷たいやつ。スープの脂が固まらないようにするのに苦労したのだそうだ。
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開湯は1900年前という由緒ある「蔵王温泉」、川のせせらぎを聴きながらゆったり浸かれる写真の「蔵王大露天風呂」はじめ、3つの共同浴場、3つの足湯、5つの日帰り温泉施設がある。風情のある温泉街を散策するのも楽しい。
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標高約1,660mに鎮座する「蔵王地蔵尊」は、37年かけて1775年に造立されたといわれ、それから遭難者が減ったので“災難よけ地蔵”と呼ばれるようになった。いまでも災難よけ祈願のために訪れる人が後を絶たないそうだ。
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蔵王を象徴するこの「御釜」、荒涼とした火口に湛えられた水が、とても神秘的。水温は10数mの深度で2℃まで下がるが、それより深くなると温度が上がるという、世界でも稀な湖。太陽光の変化によって、さまざまに色を変えるのも、また不思議。
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スノーモンスター「樹氷」、寒い山ならどこでも見れるわけではない。日本海から吹く水蒸気を含んだ風は、まず西側の朝日連峰に雪を降らせ、山形盆地をわたって蔵王連峰を上昇する。そのとき雲は0℃以下でも凍らない過冷却水滴というものを含む。それがアオモリトドマツにぶつかって凍りつく。そこへ雪がつく、また水滴が凍りつく、その繰り返しで固ってゆくのだという。昨今は夜にライトアップもされる。とっても幻想的な世界。
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さて、山形駅から仙山線に乗って15分ほど、山寺の駅を降りると「立石寺」。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」芭蕉がこの名句を残したところ。奥の院へむかう参道は、いくつもの堂塔を巡るように杉木立のなかを登る石段がつづき、時が止まったような静寂に支配されている。そして、まるで天空へ昇るかのように、奇岩の山肌に建つ開山堂の景観は、まさに絶景としかいいようがない。

地域の近代史を記憶する八幡山公園
<神奈川県平塚市>

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前回紹介した平塚八幡宮には立ち入りが禁止されている御山があります。入るなと書かれると気になるのですが、もちろん立ち入るわけにはいきません。ただ、御山と言っても町のなか。いったん神社の外に出てなかをうかがえるところがないか歩いてみました。

 

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塀沿いに歩くこと約3分。平塚八幡宮の裏側は「八幡山公園」になっており、八幡宮の御山と接しています。公園内から境内をのぞくと、本当に山中のような木々ばかりが見えました。商業が発展した町のなかなのに鎮守の森が大切に残されているのは、地域の人々の意識が高いからなのでしょうか。時間や歴史・人々の想いといった価値が大切にされていると感じました。

 

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平塚八景のひとつに数えられる八幡山公園は、昔から景勝地として有名だった八幡山が戦後になって公園として整備された場所です。八幡宮の森とともに町中に緑豊かな空間をもたらし、憩いの場になっています。また、広域避難場所としても指定され、都市機能の役割も担っているそうです。

 

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園内にある洋館は「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」、通称「八幡山の洋館」といわれる国登録の有形文化財です。1905(明治38)年に日本海軍と英国三社による合弁会社として「日本火薬製造株式会社」が設立され、その英国人支配人の執務室として1907(明治40)年末ごろに建てられたといわれています。第二次世界大戦後は米軍により接収。1950(昭和25)年になって横浜ゴム株式会社に払い下げられたあとは、応接室や会議室として使われています。平塚市へ無償贈与されたのは2004(平成16)年で、その際に八幡山公園に移築されました。時代によって所有者や使われ方が変遷していく、なかなかドラマチックな歴史を刻んでいるのです。

 

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現在は平塚市内では唯一、神奈川県内でも数少ない明治時代の洋風建造物として保存されつつ、市民が使用できるパブリックスペースとしても活用され人々に愛されているよう。当時の雰囲気のまま美しく整備されている館内へも無料入ることができます。

 

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八幡山の洋館から少し離れた所には、「コンクリート井桁積み」という少し変わった構造の塔があります。なんだろうと思って近寄ってみると、塔のふもとには「平和慰霊塔」と刻まれた石板とともにいくつかの石碑が置かれており、これが戦没者の慰霊のためのものだと分かりました。塔内には、明治以降の戦争において平塚市で亡くなった2365柱の戦争犠牲者の名簿と千羽鶴2組が収められています。犠牲者のなかには、平塚空襲の市民被害者も含まれているそうです。

 

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八幡山公園のすぐ北側にある横浜ゴム平塚工場の正門付近には「海軍火薬廠の跡」と刻まれた石碑もあります。1919(大正8)年に発足した「海軍火薬廠」は、この地域に約40万坪の敷地を持ち1945(昭和20)年まで稼働していたそうです。第二次世界大戦後は進駐軍により接収され、1950(昭和25)年になって横浜ゴムに払い下げられています。軍事拠点として地域に繁栄をもたらした一方、平塚が空襲された理由になったという話もある「火薬廠」。現在の跡地は工場や公共施設が集中し、市の繁栄と憩いを支える場になっていました。

 

 

今回紹介した施設はすべてどこかでつながっているので、歴史・文化好きな方にはぜひまとめて見てはいかかでしょう。約100年ほど前から現在に直結する歴史を感じることができるはずです。