シーズン到来!牡蠣の名産地を訪ねる
<広島県安芸津町>

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穏やかな表情を見せていた安芸津の海。東広島市の南側に位置し、昔ながらの景色を今に残している港町だ。雲が多く、今にも雨が降り出しそうな空であったが、むしろこのような天候のほうが、この港町の良さが感じられる。これが安芸津の日常に思えた。

 

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港に置かれていた大量の蛸壺。蛸の名産地「明石」が発祥とされており、蛸を捕獲する際に使われる壺だ。効率が悪いため、蛸壺漁を専門で行う漁師は非常に少ないと聞いている。蛸壺で捕獲されたタコは網漁と違い、タコの体が傷付きにくいため高級品として珍重されているらしい。

 

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かき打ちの作業所兼かき直売所である「かきの小路」。現在、9軒の作業所が海沿いに立ち並ぶ。殻付、むき身などオーダーに応じて用意してもらえるので、贈答用としても喜ばれているようだ。

 

牡蠣を平らに

作業所では産卵期を終え、旬をむかえた牡蠣が水揚げされていた。ガラガラと音をたて、ケースに運ばれる大量の牡蠣を平坦に均す作業。ただひたすら黙々と作業をする姿は、牡蠣シーズン到来の喜びを全身で表現しているように見えた。

 

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一日に作業される牡蠣の量は少ない時で約30㎏、多い時は約60㎏にもなるとの事。牡蠣の殻はベルトコンベアで運ばれていた。こちらでは牡蠣の身を取り出すことを「牡蠣打ち」と呼んでいた。牡蠣の殻を打ち割ることから、このように名づけられたそうだ。

 

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使い込まれた作業道具たち。決して綺麗とは言えないが、道具を大切にする姿勢が強く感じられた。熟練の方々による確かな技術がこの光景を通して伝わってきた。

 

裏道

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作業所への入口が立ち並ぶ小道では、牡蠣を打つ音がひそかに聞こえていた。作業所を覗いてみると、こちらでも黙々と作業に取り組んでいた。この地道な作業のおかげで、毎年、美味しい牡蠣を味わうことができると思うと感謝の気持ちが湧いてきた。

 

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そして安芸津の牡蠣をいただいた。このあたりの海域は流れ込む川が少ないため塩分濃度が高く、身が引き締まっているとのこと。適度な歯ごたえが身の引き締まりを感じさせ、噛めば噛むほど牡蠣の旨味が口いっぱいに広がっていった。これからの季節、さらに美味しくなるというから楽しみだ。

江戸の防衛拠点の要。石垣造りに負けない土造りの巨大城郭だった佐倉城
〈千葉県佐倉市〉

豊臣秀吉が天下を取って覇権を握った当時の房総半島は、安房と南上総は里見氏が、下総は千葉氏がそれぞれ勢力を構えていた。天正18(1590)年に秀吉が相模国小田原の北条氏を攻めたさい、里見氏は豊臣勢に、千葉氏は北条勢につく。北条氏が敗れたため千葉氏は北条氏とともに滅び、両氏の領地は徳川家康に与えられた。やがて家康は、慶長8(1603)年江戸幕府を開く。
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慶長15(1610)年に江戸幕府・老中の土井利勝が佐倉に移封されると、利勝は千葉氏の没落によって廃城となった鹿島城を整備拡張し、その跡に近世城郭である佐倉城を建築する。頃合いは、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いと慶長19(1614)年大阪の陣のはざま。徳川氏にとっては未だ予断を許さない緊張が続く時期。それゆえ家康は利勝に命じて江戸城の東の要害として、佐倉城を急ぎ築かせたのだろう。
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佐倉城 イメージ画 (佐倉城再建促進協議会パンフより)
この城は、西に流れる鹿島川と南に流れる高崎川の間にある川からの高さ20メートルほどの段丘崖地形(鹿島台地)を天然の要害として最大限に取り込んでいる。城のある台地の北から西にかけては急崖で、南は台地の先っぽなので、攻めにくい。東側のみ地続きで、低い台地が筋違いに起伏する地形を空堀として巧く利用し、堅固な守りのラインを築きあげた。

佐倉城址公園に足を踏み入れるとすぐ見えるのが空堀(跡)。空堀とは、城の防御のための水のない溝のことをいう。土塁とともに城を外敵から守るために掘られた。利勝はこうして空堀と土塁を巧みに配置することで、石造に負けない強固な城を造りあげた。

佐倉城は、中世以来の伝統的土造りの城だが土造りの城にもかかわらず、石垣の城に等しい防御力を備えるといわれる。方法としては、まず土塁と堀の規模を巨大にし、土塁の限界とされる約45度の角度と関東ロームの滑りやすい土を武器にした。さらに広大で深い空堀を置くことで、侵入を防ぐ。水堀ならば飛び込んだり水中に隠れるのも可能だが、空堀だとそうはいかないため、心理的な抵抗が強まる公算だ。

佐倉藩歴代の城主の中で1人を挙げるなら、やはり堀田正睦(ほったまさよし)公になるようだ。幕末に幕府が開国政策に向けて舵を切ろうとするなかで、老中首座として日米修好通商条約の交渉等に多大な貢献をしたことでも知られている。

現在は何も残っていない本丸跡。当時四方が土塁で囲まれた本丸には、北西部に天守(御三階櫓)があり、1階部分が土塁に半ば懸かるような形で造られていた。見る場所によっては3階建にも4階建にも見えるため、風趣があった。残っていないのは惜しい。文化10(1813)年に火災によって焼失し、以後は再建されていない。
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天守の東には銅櫓が建てられていたが、明治維新後は老朽化が激しく、明治4(1871)年ついに取り壊された。本丸内には御殿があり、虎口は東と南の2ヶ所に設けられていた。佐倉城には本丸、二の丸、三の丸の要所に豪壮な櫓門が5棟あったが、残念ながらそのすべては失われている。

麻賀多神社(まかたじんじゃ)から佐倉城(現・佐倉城址公園)へ向かう道の途中、『大手門』跡に現在は碑が立つ。江戸時代に佐倉藩が参勤交代で江戸に向かう際には、大手門から出発し、近所の麻賀多神社にまず立ち寄って、道中の無事を祈願してから江戸へ向かうのが習わしだったそうだ。

現在の大手門のあたりは、一面の野原。ふだん都会のビルの狭間で1日の大半を過ごす身には、この一面原っぱで広々とした開放感と眺めは、新鮮でうれしい。

佐倉城址公園手前の美しいイチョウ並木。名所としても知られる。今年は紅葉の時期に台風や大雨が重なって例年よりもボリュームダウンだったのが残念だ。
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落ちている銀杏を袋いっぱいに詰めて持ち帰る人をいく人か見た。大粒の銀杏で袋いっぱいならば都内のスーパーで1000円程もする。次回はぜひ狙ってみたい。

 

写真:乃梨花

関東地方の最北で感じる活きた火山の息遣い
<栃木県那須町>

東京から北へ約180km。関東では有名な避暑地のひとつ那須は、数多くのレジャー施設や宿泊施設・別荘地があり何度いっても楽しめるが、まずは荒々しい外見に似つかず登りやすい茶臼岳に登ってみるのがオススメだ。

 

画像提供:公益社団法人 栃木県観光物産協会画像提供:公益社団法人 栃木県観光物産協会

 

那須連山の主峰であることから那須岳と表記されることもある茶臼岳は、いまも噴煙を吐き続ける活火山のひとつ。10月ごろは中腹から山麓にかけて紅葉が広がり、多くの人が訪れる名所のひとつとなっている。噴煙と紅葉が一つの絵のように見られる場所はそうそうないので、タイミングがあえばぜひ紅葉時に訪れるべき。

 

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しかし、紅葉の時期以外も実はなかなか。車道や那須ロープウェイの混雑も緩和され、時間に余裕をもって散策できるメリットもあるし、見事な眺望は茶臼岳に登れば得られる。活火山という自然条件のためか、山頂付近は高い木が生えておらず一年を通して見晴らしが良いのだ。

 

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しかも、ロープウェイ(冬季は休業)を使って8合目まで行けば、標高1,915mの山頂まで歩いて40~50分程度。運が良ければ山頂駅付近で雲海が見られることも。ロープウェイを使わない場合でも、駐車場最奥部から山頂までのコースタイムは1.5~2時間。ルートは整備されているので、気候条件が良ければ子ども連れでも楽しんで登れるはず。ただし、風が強いことが多いので年間を通して防寒対策は必須。冬季は雪や低温など危険を伴うので、絶対に無理は禁物。

 

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山頂付近には、いまも煙を噴き出す火口跡があり、間近で見ることができる。ゴツゴツとした岩が転がる景色は荒涼としているが、なぜか人の気持ちを揺さぶるものがある。

 

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散策がすんだら温泉で疲れを癒やそう。火山の麓に広がる那須一帯には、設備がととのった温泉施設や立ち寄り利用ができる宿泊施設も数多くあるが、一度は行っておくべきなのが738(天平10)年の正倉院文書に記録が残るという「鹿の湯」。江戸時代には、江戸在府の大名が湯治に訪れ、松尾芭蕉も立ち寄ったといわれる歴史ある温泉だ。

 

画像提供:公益社団法人 栃木県観光物産協会画像提供:公益社団法人 栃木県観光物産協会

 

浴室は体を洗う場所がなく6種類の浴槽が並んだ独特のスタイル(一番手前が汗や汚れを落とすかぶり湯)。石鹸やシャンプーは使用禁止で、基本的には体を流して湯に浸かるだけである。浴槽の温度は41・42・43・44・46・48度(48度は男湯のみ)とかなり熱め。他では得られない温泉体験を味わえる。

 

画像提供:公益社団法人 栃木県観光物産協会画像提供:公益社団法人 栃木県観光物産協会

 

鹿の湯の目の前にある「殺生石」にも立ち寄るべし。古人が獣や鳥が死んでいる場所から特定し「殺生石」と命名されたという石は、九尾の狐が姿を変えた毒石という伝承もある。いずれにせよ恐怖の対象となっているのだが、「怖いもの見たさ」は人類共通の習性なのか、古くから人々が見物に訪れる場所であった。かの芭蕉もこの風景を見て句を詠んだことから「おくのほそ道の風景地」として国の名勝に指定されている。いまでも有毒の火山ガスが噴出しているため、チラホラ注意書きが添えられたなかなか珍しい観光スポットだが、火山が作り出す特異な自然を感じて欲しい。

日本海五大船主に挙げられる有力商人の町「南越前町」その②
<福井県南条郡>

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右近家背後にある西洋館からの眺望。やはり、右近家を中心に町が形成されているように見える。ほとんどの家屋が瓦屋根で統一されていることは、現代では珍しく困難に思えるが、ぜひ残していきたい日本の美である。

 

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南越前町河野の海岸線には、荒波に削られてできた変わった形の岩が数多く見られる。この「坊主岩」と呼ばれている奇岩もそのひとつ。本当に坊さんが座り込んでいるように思える。北前船に乗り込み海へ出た先人たちは、きっと「坊主岩」に安全を祈願したのだろう。

 

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高台にある西洋館から石段を下りている最中に発見。おそらく「しまへび」。近づいても逃げなかったので撮ってみることに。一瞬、触れてみようかと思ったが「しまへび」でなかったら、大事にいたる可能性があるので大人の判断により目で楽しむことに。

 

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遠目から見る「右近家 西洋館」。国登録有形文化財である。高台に建っていることはわかっていたが、想像以上の高さであった。この別荘を建築した目的は「お助け普請」だといわれている。「お助け普請」とは領主などが土木工事を行い、領民に仕事を与えるといった、現代で言う「地域活性化事業」だ。右近家の地元愛が詰まった西洋館である。

 

北前船主通り一番北に位置する刀禰家の外蔵である。寄港する北前船の荷受けなどを迅速に行えるよう、当時の浜辺近くに建てられたと考えられる。海風から本宅を守るようにいずれも2階建てとなっており、棟の間に長屋門が建っている。

 

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右近家資料館前にある派出所。市民の安全を守るだけではなく、河野地区の景観も守っていた。

 

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北前船のモニュメント。いくら儲かるとはいえ、こんな小さな船に乗り込み、荒波に揉まれながらの航海など私には到底考えられない。右近家は船頭などを極力、身内に任せていたという。大きな危険を伴う廻船業は、家族の絆が必要だったのかもしれない。

吉祥寺・ハモニカ横丁にも通じる?戦後昭和の風情が色濃く漂う町並み『人情横丁』
〈新潟県新潟市〉

新潟市はかつて掘と橋の町で、本町中央市場(人情横丁)があるこの地も掘が通っていた。しかし戦後、鉄道や自動車の普及などによって掘の役割は失われ、埋め立てられた掘の跡地に、本町通で商いをしていた露天商たちが移転してきて店を開きはじめた。これが「人情横丁」の始まりだ。
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1951年(昭和26年)から新潟市民の台所として親しまれてきた「人情横丁」も2011年には60周年を迎えた。最初の頃は鮮魚店や魚介の塩物・干物、野菜など生鮮食品を扱う店が並んでいた商店街も、時代が変わり、現在では食料品店をはじめ、雑貨店から飲食店まで、変化に富んだ店が軒を連ねている。
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アメリカの日常雑貨やデッドストックなどを集めて売っている「USA Store」は、店内も外から見たままの明るくポップなアメリカンテイスト満載の店!見ているだけでも楽しいが、他にはないレアなアイテム探しも密かな楽しみだ。
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この商店街で予想外の衝撃は「浜焼き」の店。まさか商店街に浜焼きの店があるとは!ビジュアル的にも「うおぉ」という感じのインパクト。このうれしい遭遇にすっかり気をよくするも、すでにこれまでタモリや安倍首相までもが訪れていた隠れた名物店だと知る。
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新旧の店が混ざり合いながら景観をつくる「人情横丁」。どこかで似た感じも?と思い出したのは吉祥寺の「ハモニカ横丁」。どちらも戦後に屋台やバラックから始まった古い商店街が、今もなお人を惹きつけてやまない磁力を発散し続ける。
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「港すし」は、ここ新潟では、坂内小路に店を構える昭和8年創業の老舗寿司店として知られるが、最初は西掘通りの掘端で、よしずばりの屋台店から始まったという。原点にたち戻るため、創業時のこの場所に2016年姉妹店を設け、屋台ではないがカウンターのみの席で営業している。
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この「港すし」について、「本店は高級店だから私たちも普段は行けないけれど、同じ美味しさでもこっちはそれほど高くないのよ。」と親切な情報を下さったのは、地元の方。旅をする身にとっては、こんな交流がいっそうの旅の魅力だ。
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本町通と新津屋小路(人情横丁)が交差する場所に位置する「白龍大権現」。縦に細長くのびた商店街の表裏2列を束ねるように鎮座する。縁起では、1953(昭和28年)に大河津(燕市)に漂着した古い龍神像を祀ったのが始まりとされる。本町中央市場の入口に面し、商売繁盛の神様としても信仰されるが、絡みあう和合歓喜の姿から縁結びの神としても崇められている。

 

写真:乃梨花

時代劇の世界にどっぷり! 江戸時代から時を刻む高山陣屋
<岐阜県高山市>

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古い町並みから中橋を渡ると国指定史跡の高山陣屋がある。陣屋とは、幕末には全国に60カ所以上あったと言われている江戸時代のお役所(代官所)のことで、当時の主要建物が残っているのは高山陣屋だけ。この陣屋は1929(昭和4)年に国の史跡に指定されたあとも、公的機関の事務所として使われつづけたが、1970(昭和45)年から数度にわたる整備事業を経てほぼ江戸時代の姿を再現。いまでは多くの訪問者をひきつける名所として地域に貢献している。

 

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広大な敷地内には建物以外も見るべきものが多数。時代劇でおなじみの御白州(裁判所)や門番所、49畳もある大広間に、かつて年貢米を保管した藏など、行政にあたって必要であった施設のほか、一揆の首謀者として打ち首にされた農民の辞世の句や罪人を白状させる拷問具といった、歴史の授業で習ったことが現実感をもって感じられる資料の展示も豊富。建造物・歴史・アートなど、どのような視点で見ても興味深いものが多いはず。予約をすれば無料で説明案内してくれるガイドサービス(英語も可)も受けられるので、事前に予定を組んで利用するのがオススメ。

 

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また、陣屋の前では地元の農家さんが持ち寄った新鮮な野菜や漬物、民芸品などの土産物まで並べられる朝市が開かれる。約30店のテントが立ち並ぶ朝市は毎日(!)正午ごろまで開かれているので、ゆっくり目に出かけても間に合うのが嬉しいところ。飛騨ことばで話す地元の方たちとのやりとりは、旅情を一層深めること間違いなし。ちなみに、宮川を少し北上すると川沿いで宮川朝市というもう一つの朝市も開催されている。

 

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高山陣屋から南東に見える山は1603(慶長8)年に完成したとされる高山城の跡地で、現在は城山公園と呼ばれ高山市で一番大きい公園となっている。「高山城跡及びその周辺の野鳥生息地」として市の天然記念物に指定され、市街地にある貴重な自然公園として市民の憩いの場所としても機能。秋の紅葉時や約1000本の桜が開く花見の季節は多くの人が訪れる。残念ながら天守閣などの建造物は失われているが、城下町を一望できる場所までゆっくり散策を楽しんではいかがだろう。

 

画像提供:一般社団法人岐阜県観光連盟

武生まちあるき必須のレトロ空間「蔵の辻」
<福井県越前市>

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「まちあるき」にて寺町を学んだあとは「蔵の辻」へ。かつてこの地域は、関西と北陸を結ぶ中継地点として栄え、商人たちの蔵が多く建てられた。現在は、大正から昭和初期の蔵がいかされたお店が立ち並ぶ、市民憩いの場として活用されている。週末はイベントなどが開催され多くの人が訪れるそうだ。

 

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蔵の辻に店を構える「三河屋」さんにて夕食。こちらは地産地消を推進しており、その日獲れた地のものを使った料理が楽しめることで人気だ。

 

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まずは、鯖のみりん干しを注文。皮はパリパリ、身はふわふわ。みりんのほどよい甘さ加減が絶妙である。銚子の鯖もなかなかのものだが、こちらもお見事。素材の良さはもちろんだが、店主の腕がものをいう逸品である。

 

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〆は店主オススメの黒米うどん。農家の方にお願いをして作っているそうだ。そばのように見えて、コシと風味はうどん。あっさりとした出汁とうどんの相性は抜群。ぶっかけが基本の食べ方で、温かいとコシがなくなるとのこと。用意できない時があるので、食べたい時は予約が必要。

 

お次は、同じく蔵の辻にある「コンセントバー2nd」へ。若いスタッフたちが丁寧に接客をしてくれるので、一人で来ても安心できるお店だ。バーでありながら食べ物も非常に充実しているので、しっかり食べたい人にもオススメ。

 

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同行者がオススメの牛すじ煮込み。何ともやさしい味だった。こちらの店主は、知り合いの漁船に乗せてもらい漁をおこなっているそうだ。その獲れたて新鮮な魚をお店で提供している。オススメメニューに魚料理が目立った理由にも合点がいった。

 

ひとしきり堪能したのち、店の外へ出るとかなり強い雨が。店の明かりにライトアップされた雨の蔵の辻に大人の色気を感じた。

 

 

 

『佐倉の秋祭り』で知られる県内最大級の大神輿を奉納する麻賀多神社
〈千葉県佐倉市〉

印旛沼の東側から西にかけての地域に分布する全18社の『麻賀多神社(まかたじんじゃ)』は、全国でも名前の珍しい神社です。約1050年前の政令集『延喜式(えんぎしき)』に社の名前が記載されていることから、古くから中央にまで名が知られていたことがわかります。
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ここ佐倉の『麻賀多神社』は、先代宮司家による伝承では、鎮座は約2000年前に遡るとも言われており『佐倉城天守』よりも本殿の標高が高いのが特徴。もともとが「鎮守の森」であったからです。(脚注:日本では古来から“高い山や森には神が宿り”そうした神様がときどき降る場所として、人里の小高い場所に神社や御神木を囲む森を育て「鎮守の森」として奉じてきた歴史があります。)

やがて徳川家康が江戸に幕府を開くと、老中の土井利勝が佐倉に移封され、家康の命により約7年の歳月をかけて千葉氏の一族鹿島氏が築いた未完の中世城郭(鹿島城)を整備拡張し、佐倉城を建設します。城の改築と同時に東の馬の背に鉤の手の道をひらき、商人や職人を住まわせ、城下町を形成しました。

以来、佐倉城大手門のすぐそばにある『麻賀多神社』は、佐倉藩の総鎮守となり、江戸時代にもっとも長く藩主を務めた堀田氏をはじめ、歴代藩主の加護の下に祭禮(さいれい)を行ってきました。

今回そんなお話をして下さったのは、『麻賀多神社』宮司の宮本さん。10月13〜15日に開催された『佐倉の秋まつり』の大役を無事に終えた直後でホッとひと息というところ。祭祀用の着物がクリーニング中のため、逆にふだんは滅多に拝見できないカジュアルウエアで(笑)お忙しい中、取材に応じてくださいました。

きれいに掃き清められた境内と大イチョウの紅葉をバックに凛とした佇まいの本殿は、さすが神様がおわす御殿、霊気さえ漂います。ところが宮本さんが約20年前にこちらに来られるまでは、ひと気もなくさびれた雰囲気だったというから驚きです。

詳しく事情を伺うと、宮本さんのご実家は“佐原”で老舗のおせんべい屋で、神職の道は自らの志望。しかし神社の跡継ぎではないため、学校を卒業後は県内の別の神社で職員をされていたそうです。その時に出会ったのがこちら『麻賀多神社』の先代宮司さんというお話。偶然ではなく神様が取り持った“ご縁”かも?

先代宮司さんは当時80代。お子さんはおらず、引き継ぐ宮本さん(当時26歳)とはまるで曽祖父とひ孫のような年齢差。それでもなんとか間に合って、この由緒ある麻賀多神社を無事に引き継ぎ守った、というお話だけでもドラマティックですが、老朽化した建物や境内に手を入れて、ひと気のなかった神社を再び多くの参拝客でにぎわうまでに復活させたのは、ひとえに宮本さんのたゆまぬ努力の賜物と言えます。

そんな宮本さんに、今回特別に見せていただいた大神輿は、いまから296年前の江戸時代に360両で作られたお神輿で、千葉県内では最大級のもの。2天棒で担ぐタイプなのは、クランクと狭い道からなる佐倉の城下町を、ひっかからず通り抜けするための知恵なのだそうです。また、このお神輿は代々の伝統により『鏑木青年会』の人しか担げません。

宮司さんと鏑木青年会以外では、近づくことが許されないお神輿さんの至近距離撮影は、宮司さま特別のおはからい。この距離から見ると、お神輿の表面に施された精緻な象嵌や彫刻、漆による彩色など、一分の隙もない見事な職人技がよく伝わります。

この日は『麻賀多神社』facebookで人気の高い(?)母ニャンにも境内で遭遇。コチラによく遊びに来る可愛い三毛の野良ちゃんだそうです。(写真には写ってませんが、相棒のスルメちゃんも近くにいました。)

そしてこちらは『イチョウ三姉妹』のなかの孫イチョウ。植物学者の沼田眞さんの調査によって、これらのイチョウが母・娘・孫の関係であることが判明したとか。ちなみに母イチョウは当神社のご神木を言います。

摂社の三峯神社は、麻賀多神社の御祭神ワカムスビノミコトの祖父母神(イザナギ・イザナミの両命)が御祭神というつながり。小さな境内には『佐倉・七福神めぐり』の神様の一つ「福禄寿」も顔を覗かせています。

 

写真:乃梨花

ミシュランガイド3ツ星獲得の歴史が息づく城下町
<岐阜県高山市>

takayama01日本で一番広い市町村がどこかご存知だろうか? あまり考えずに答えると北海道にありそうな気がするが、実は岐阜県の高山市が面積日本一(2,177.61平方キロメートル)。ただ広いだけではなく観光地としての魅力も豊富で、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンにて3ツ星(わざわざ旅行する価値がある)を獲得。なかでも市の中心地周辺は江戸時代以来の姿が残されており、歴史を感じさせる名所が多い。

 

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JR高山駅から徒歩5分にある飛騨国分寺は、創建が746(天平18)年という古刹。室町時代に建築されたという本堂も見どころだが、さらに人をひきつけているのが国の天然記念物にも指定されている銀杏(イチョウ)である。推定樹齢1200年を超え、直径約10メートル・高さ約30メートルにもなる大銀杏は、隣接する塔にも負けない存在感を発揮。鮮やかな黄色に色づく紅葉時は特に人気で、寺のHPでも毎年の経過観察を紹介(例年は11月中旬が見頃のようです)している。

 

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国分寺から東へ数分歩くと、地元で古い町並みと呼ばれる地域へ。一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、その名の通り歴史を感じる伝統的な建物が集まり、優れた景観をつくりだしている。かつては商家町として発達したこの区域には、造り酒屋や飛騨名産の食べ物屋、お洒落なカフェなどが並び、歩きまわりが楽しい。和装のレンタルショップもあるので、着物や浴衣を着て写真を撮るのもおすすめだ。飛騨民俗考古館藤井美術民芸館など、展示施設も多いので、たっぷり時間をとって訪れたい町並みである。

 

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古い町並みと並行して流れる宮川にはいくつもの橋がかかっているが、もっとも有名なのが中橋。擬宝珠や欄干をそなえた赤い橋が生み出す景観は、各テレビ局のお天気カメラ設置ポイントにも選ばれているそう。観光客にも人気スポットで、ライトアップが行なわれる時期は夜の散策を楽しむ人も多い。

 

画像提供:一般社団法人岐阜県観光連盟

日本モダニズム建築の開拓者、建築家・堀口捨己の『小出邸』
〈東京都小金井市〉

「東京たてもの園」にある『小出邸』は、吉田五十八、村野藤吾とともに、戦後モダン数寄屋建築家の巨匠と呼ばれるほど名声を高めた堀口捨己の初期の作品だ。この建物は現存する数少ない堀口捨己作品の1つであると同時に実質的な処女作とも言われている。大正14年(1925)に現在の文京区西片に建てられたものが移設された。
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東京帝国大学建築学科を卒業した後、日本最初の近代建築運動である「分離派建築会」を山田守らとともに結成した堀口捨己は、その後、日本の建築家のなかでは早くにヨーロッパへと渡った。オランダではアムステルダム派やデ・ステイル(英:The Style)派の建築に触れ、帰国して間もなく設計したのがこの小出邸。ピラミッド状の宝形屋根と水平な軒の組み合わせが印象的だ。
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幾何学的構成のなかに円形開口やレンガなどの組み合わせがユニークな玄関廻り。円形の意匠は焼失してしまった表現主義建築の名作と言われる『紫烟荘(1926年)』にも共通して見られる。
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『小出邸』の中で、ひときわ存在感を放つピアノが置かれた応接間。家具はこの部屋に合わせてデザインされたものだという。
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縦の直線が伸びた先は天井へとつながり格子を形づくる。幾何学的に区割りされた部屋壁の一部には銀箔の壁紙がほどこされ、三段吊り戸の水平ラインと相まって近未来的なムードを漂わせている。自然と視線がそこへ向かうようなコーナーだ。邸内の部屋の中で、モンドリアンを代表とするデ・ステイル派の影響をもっとも強く感じさせるのがこの応接間だろう。
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応接間・食堂を除けば、他はほぼ和室で構成されている『小出邸』。1階の和室は、和室でありながらもタテ・ヨコの線が強調され、マスで仕切られたように面が浮かび上がって見えてくる。
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2階の和室は伝統的な書院造りに鮮やかな鶯色の色彩が対比して、大胆ななかにも洗練された美が感じられる。
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落ち着いた美しさを見せる曇りガラスと透明ガラスのコンビネーションからなる格子窓。建物全体のタテ・ヨコラインを意識した設計は各和室の窓にも重ねて適用される。
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玄関サイドから眺める建物外観は、正面とはまた別の趣き。屋根の三角形と玄関ポーチの丸い覗き窓、窓の四角い形が並び、幾何学図形をモチーフにしたデザインの実験のようにも見える。
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玄関ポーチのアクセントはそれぞれの意匠に切り取られた風景。平凡な日常でもこの玄関を覗くたび、ちょっとだけ愉快に感じられそうだ。

 

写真:乃梨花