宮沢賢治が名付け親で知られる東北を代表する民藝の店『光原社』
〈岩手県盛岡市〉

大正13年(1924)年に宮沢賢治の『注文の多い料理店』発刊に伴い誕生した『光原社』は、出版社から始まった。『光原社』の社名は賢治によるものだ。

創始者の及川四郎氏は、賢治と盛岡高等農林学校で一学年違いの同窓だった。その後、花巻農学校で教師をしていた賢治から膨大な童話の原稿を預かることになり、その中から生まれたのが『注文の多い料理店』。賢治の生前に刊行された唯一の童話集だが、残念なことに当時はほとんど売れずじまいだった。

『光原社』はその後、材木町に工房を構え、南部鉄器や漆器の製作を手がけはじめた。昭和10年代からは、南部鉄器の作家・高橋萬治や民藝運動の提唱者・柳宗悦、版画家の棟方志功らと出会い、全国各地の民藝品を販売するようになった。

敷地の中には、自社の工房で作った漆器や全国のやきもの、沖縄のガラスや松本の家具などを扱う『本店』、岩手の食品や東北地方の工芸品を扱う『モーリオ』、『注文の多い料理店』の初版本や関係資料を展示した『マヂエル館』など、複数の施設を構える。

メルヘンな世界観そのままの木漏れ日が射す中庭。童話から抜け出てきた動物たちが隠れていないか?さがしてみよう。

賢治の顔が描かれたレリーフの横には「注文の多い料理店出版の地」と刻まれた記念碑が建つ。

世界の民藝品や衣類などを扱う『カムパネラ』を背に、本店に向かうと左に喫茶室『可否館』の大きなガラス窓が見える。夕暮れ時には、窓から漏れだす飴色の灯りが周囲を染める。

新館の1階には『光原社』ならでは、と思える吟味された陶器たちが並ぶ。

吹きガラスで1つずつていねいに作られたワイングラスは、ひとつとして同じ形がない。ちょっとした違いではあるが、それでも味わいが微妙に異なるため、選ぶ際にはどれにしようか迷いそうだ。

民藝品の持つ味わい、ぬくもり、手触り。すべてが感じられる。ずっと見ていても飽きない魅力がある。

店内には賢治の「雨ニモマケズ」の一節が染め抜かれた紺色の暖簾がかかる。この「雨ニモマケズ」のなかに見ることのできる賢治の精神を多くの人たちに伝えたいという思いが、あるそうだ。

 

写真:乃梨花

前田利家も暮らした歴史ある町「武生」で“むかしまちあるき”<福井県越前市>

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小浜市を後にし、武生へ向かう。敦賀駅のベンチには、なんと恐竜が設置されていた。恐竜王国にふさわしいおもてなしである。隣に座り記念写真を撮って貰おうか迷ったが、着ぐるみ的な造り物が苦手な私は遠慮させていただいた。

 

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武生駅に到着。駅前から市役所へ向けてメインとなる大通りが伸びている。さらに奥へ進むと「蔵の辻」「寺町」といった「まちあるきスポット」がある。武生駅界隈は、様々な歴史文化が重なり合った「むかしまち」である。

 

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重厚かつコンクリートの風合いが歴史を感じさせる「越前市役所」。この一帯は旧越前国府の城跡と推定されており、市役所には石碑や解説板が設置されている。

 

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車での移動が多い地域を象徴するかのように、人通りが少なかった商店街。しかし、シャッター商店街のような、すたれた感じは一切なく落ち着きと風情を併せ持っていた。決して寂しさを感じさせない光景であった。

 

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寺町通りの町並み。石畳が美しく敷きつめられている。日が落ちてくると、石灯篭やつり灯篭にあかりが灯され、時間の流れがゆっくり感じられる。この静かな街並みは、都会では感じることのできない安らぎを与えてくれる。

 

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越前国の国府が置かれ、国分寺などが建立されて以降、武生にはたくさんの寺や神社が集まった。こちらは「総社大神宮」。地元の方からは「おそんじゃさん」と呼ばれ親しまれている。創祀年代は不詳であるが、国司の巡拝、奉幣のために神々を一社にまとめて創建された神社である。堂々とした大きな鳥居が、神々のまとめ役としての威厳を放っているかのように見えた。

 

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総けやき造りの山門が見事である「引接寺(いんじょうじ)」。長亨2年に建立された天台宗真盛派別格本山である。境内にある本堂は文久年間に建立された。明治11年、明治天皇が北陸を巡行した際の行在所となり、当時の庭園や玉座は現在も保存されている。

 

 

 

 

 

 

 

耶馬渓(やばけい)のもうひとつの入り口に聳えるメサやビュートの山々
<大分県玖珠町>

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広大な景勝地である耶馬渓への南側からの入口となるのが玖珠町である。単に入口となっているだけではなく、耶馬渓の代表的な景観66カ所のうち17景は玖珠町に位置しているのだ。なかでも、長さ1kmにわたって屹立する岩峰が連なる「立羽田(たちはた)の景」は、裏耶馬渓一の景観との呼びこえも高い。奇岩を取り巻く植物が色づく紅葉時は、絵画のようと称される美しさで、訪れる人々を魅了しつづけている。

 


玖珠町の見どころは耶馬渓以外も豊富。なんといっても特徴的なのがメサやビュートと呼ばれる地形の玖珠盆地の山々。頂上がテーブルのように平らな山が生みだす景観はかなり珍しく、山並みだけをみていると異国のように感じてしまうほど。耶馬渓の岩峰とテーブルマウンテン、極端にめずらしい地形が同じ町内でみられるのは奇跡的なことではないだろうか。

 

玖珠町を代表するメサ台地である万年山(はねやま)は3キロに及ぶ溶岩台地で、高度1140mの山頂付近は広い草原で開放感も抜群。眺望もよく、条件が良ければ長崎県の普賢岳まで望めるそう。駐車場から山頂までのコースタイムは最短40分、周回コースでも約3時間半と、手軽に楽しめるハイキングコースとしても人気が高い。ミヤマキリシマが咲き乱れる初夏は、ピンク色のテーブルクロスが敷かれたようになる。

 

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耶馬六十六景のひとつに数えられる角埋山(つのむれやま)は、急峻な斜面を豊かな自然林が覆っている山である。山頂部には、源為朝によって築城されたと伝わる角牟礼城(つのむれじょう)の跡が残されており、穴太(あのう)積み石垣なども目にすることができる。戦国時代には難攻不落の城として知られた角牟礼城だが、現在は1時間足らずで周回できるコースも整備され、貴重な城跡と豊かな自然を同時に堪能できる。

 

 

画像提供:公益社団法人ツーリズムおおいた

明治〜大正期の『港町・商都新潟』の息吹を今に伝える「旧斎藤家別邸」
〈新潟県新潟市〉

旧斎藤家別邸は、4代・斎藤喜十郎が大正7年(1918)に造った総敷地面積約1300坪を誇る広大な別荘だ。斎藤喜十郎家は、東掘通七番町に居を構え、新潟の三大財閥の一つに数えられた名家。幕末の頃、家業の清酒問屋から事業を拡大し、明治時代には北前船の海運業で一財を成した。その後、銀行業などで安定した地位と基盤を築き、地域経済の近代化に大きく貢献した。

庭園を含む広大な敷地は長塀で囲まれている。中央付近に棟門を置き、塀と門には瓦が乗せられている。通りには、北方文化博物館分館の土蔵や行形亭の土蔵・板塀などが並び、格調高い屋敷町の風情を漂わせる。

大きく迫る松を背景に、斜面に多くのもみじが植えられている回遊式庭園。名園と言われる庭では、さまざまな味わいの異なる表情が楽しめる。建物内から見下ろす庭園の眺めも格別だ。

主庭内には天空に枝を広げた老松が威風堂々と立ち、屋敷建物との陰翳ある佇まいには和の美が濃く滲む。松の下には大小のモミジが枝を張り、紅葉の頃にはいっそうの美しさを見せる。

現在は多目的に使われている土蔵。もとは家財や骨董品を収蔵する蔵だった。床板と柱はヒノキで、扉の金具(鍵)部分には斎藤家の家紋「丸に剣片喰(けんかたばみ)」があしらわれている。片喰は繁殖力が強いことから「家運隆盛・子孫繁栄」のシンボル。土蔵の外壁はなまこ壁で、現存するのものは少なく貴重だ。

この庭園は、明治時代から昭和初期に活躍した東京の庭師・2代目松本幾次郎と弟・亀吉が作庭に関わったと言われている。2代目松本幾次郎が手がけた庭には、渋沢栄一邸、山本唯三郎邸、成田山新勝寺などがあるが、大半は戦災で失われ、ここ以外には成田山新勝寺の庭園が唯一現存するのみだ。

庭園全体のグランドデザインは、格式のある玄関庭、趣のある中庭、砂丘地形を上手に活かして築山(つきやま)と見立てた広大な主庭の3つのパートからなり、それぞれが園路で結ばれる。砂防には元からある黒松と赤松が活かされている。それまでの古典的な日本庭園は、象徴的・形式的な作り方が主流だったが、2代目松本幾次郎らは、自然の中にある心地よい景観を写実的に庭園に取り入れる「自然風」の作庭術という潮流をつくった。

この庭園で2番めに多く使われている「筑波石」は、茨城県筑波地方で産出され、大正時代のはじめごろより関東地方を中心に使われはじめた。渋い感じの銘石で、庭園の階段や景石などに使われている。新潟県での使用はこの庭園が最初といわれている。

主庭内の大滝は落差がおよそ3.8mもある豪快なもの。庭園の滝では、県内最大級といわれている。この大滝の石組には、かつて阿賀野川上流より採取され新潟で「幻の銘石」といわれた高級石材の「海老ヶ折石」が多数使われている。

園内には、佐渡の鉱山から運ばれた多くの石臼が飛び石として使用されているが、これは「見立て」という本来の目的とは違うものを、別の用途で活かす日本庭園ならではの手法だ。

庭園全体におだやかで落ち着いた空気が流れ、池で泳ぐ鯉たちも心なしか悠々として見えた。

 

写真:乃梨花

台風さんにはちょっと待っていただいて・・・
<福井県小浜市>

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宿泊先から望む若狭の海。台風前の静けさと言ったところか、穏やかな光景が目の前に広がっていた。1日の始まりとしては申し分ない晴れやかな気分にさせてくれた。

 

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この日は小浜市にて若狭地方最大の秋祭りである「放生祭(ほうぜまつり)」が行われていた。約300年の歴史を持ち、山車、大太鼓、神楽、獅子、神輿が二日間にわたり旧小浜町内を巡行する。紋付袴を纏った人々が引率する姿は懐かしくもありながら、祭り特有の貫禄が感じられた。

 

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各区には本陣が構えられていた。こちらは貴船区の本陣。台風18号が九州に上陸し、北陸に向かっていたので「無事に開催できて良かったですね」と声をかけたところ「台風さんにはちょっと待っていただいて」と粋な言葉がかえってきた。こんなやり取りができるのも祭りの魅力であろう。

 

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本陣の前では、大太鼓や獅子による演し物が披露される。大音響の囃子に合わせて、棒振りが勇壮に立ち回っていた。跳ねまわりながら棒をかち合わせるなど、演者同士の呼吸合わせが重要な動きが多く盛り込まれていた。

 

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重要伝統的建造物群保存地区に指定されている小浜西組の町並み。主に商家町と茶屋町で構成されている。中世の頃には、京都に近いこともあり日本海側屈指の湊町として繁栄したそうだ。現在の町並みは、明治4年の地籍図とほぼ同じ形態であり、丹後街道を基軸にした町割りが評価されている。

 

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大正期に建てられたという町家を修理再生した「町並み保存資料館」。京都と同じく「ウナギの寝床」のように間口が狭く奥行きが長いのが特徴。玄関に入ると通り庭があり、その横にはミセノマ、ナカノマ、オクノマがある。そして、その奥には中庭、土蔵といった小浜の伝統的な町屋である。当時は間口の広さで税金を決められたため、このような工夫を凝らしていた。

 

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大正14年に建築された「高島歯科医院」。病院建築の遺構として貴重な存在で、木造2階建て外壁はモルタル仕上げだそうだ。玄関上部にあるダビデ風の星型レリーフが、ある種異様な雰囲気を醸し出していた。平成19年、国登録有形文化財に登録されている。

 

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魚の小売商店が並ぶアーケード街「いづみ町商店街」は、慶長6年に行われた町割りで生まれた。鯖街道の起点とされており、その証としてプレートが埋め込まれている。現在も魚問屋や魚屋が営まれており、店頭では鯖が焼かれていた。昼食後であったが、周囲に漂う香ばしい香りに食欲をそそられてしまった。

 

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近年、新たな観光資源や魅力的なまちづくりの寄りどころとして、社会的関心を集めている近代化遺産。このSL給水塔は小浜駅に保存されており、かつてSLの動力となる蒸気に必要な水を給水塔から供給していた。大正10年製のレンガ造りで、当時はこの上にタンクがあったそうだ。

 

 

 

 

 

 

長い年月が生み出した広大な景勝地「耶馬渓(やばけい)」の見どころを探る③
<大分県中津市>

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広大な耶馬渓のなかで山国側の上流付近は奥耶馬渓と呼ばれ、自然のすばらしさを満喫できるエリア。なかでも猿飛千壺峡(さるとびせんつぼきょう)は、「甌穴(おうけつ)」と呼ばれる激しい渓流により造られた穴が約2㎞にわたって広がる峡谷で、ここでしか見ることのできない景観がある。その一部は「風化及び侵蝕に関する現象」の保護観点から、1935(昭和10)年に「耶馬渓猿飛の甌穴群」として国の天然記念物に指定されているほど。ちなみに、かつては山猿が飛び回っていた場所であることから名前の一部に猿飛と付けられたそうで、無数にある甌穴を壺と考えると非常に分かりやすいネーミングだ。

 

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甌穴群から「万葉歌碑ロード」という川沿いの遊歩道を400mほど歩くと、渓谷にかかる「念仏橋」がある。もともとは1877(明治10)年に地元のご住職が私財を投じてかけた橋だが、渓谷の激流に流されることも多く、1928(昭和3)年に石造のアーチ橋に架け替えられている。現在は隣に新しい橋もかかっているが、歴史を感じさせる苔むした石橋と周囲の自然美が織りなすビジュアルが、フォトスポットとして人気。

 

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猿飛甌穴群の下流1.5㎞に延びる魔林峡(まばやしきょう)は、多数の甌穴が発達して繋がり溝や壁のようになった渓谷。川岸は垂直に近い岸壁のうえ岩と岩の間が狭く、地域の人は「まべし谷」と呼んでいるそう。遊歩道や展望台が整備されているので、自然の造形や四季の景色を楽しみながらのんびり散策できる。

 

メイプル耶馬サイクリングロード
かつて中津から奥耶馬渓までを結んでいた耶馬渓鉄道の線路跡が、メイプル耶馬サイクリングロードとして整備されており、耶馬渓の景勝地にくわえ、橋梁、トンネル、駅などの鉄道遺産も楽しめるコースになっている。なかでも、本耶馬渓から山国までの約22キロメートルは、山国川を沿うように走る自転車専用道路になっているので特にオススメ。エリア内には3カ所のレンタサイクルの施設があり、片道利用の乗り捨てでも借りることができる。勾配も緩やかなので初心者でもOK。時間に余裕をもって走れば、車では見過ごしてしまう風景に出会えるだろう。

 

 

画像提供:公益社団法人ツーリズムおおいた

中津川沿いに建つ、蔦の絡まる“まるで隠れ屋みたいな”喫茶店『ふかくさ』
〈岩手県盛岡市〉

岩手銀行赤レンガ館から中津川沿いの遊歩道を沿ってしばらく行ったところに、大きなギンドロの木と蔦に覆われた喫茶店『ふかくさ』はある。

名前が先か、はたまた建物がツタにすっぽりと覆われてしまったのが先なのか、順序が気になるところだが、なるほど、ぴったりな店名だ。この店は盛岡の地元誌(『てくり』)によれば、オペラ歌手として著名だった関谷敏子に師事し、戦後、歌姫として進駐軍キャンプや将校クラブなどのステージで活躍していた元店主の細谷律子さんが今から40年ほど前に開いた店だという。

すでに息子さん夫婦に引き継がれた『ふかくさ』の店内には、“長い時間その場所にずっと留まったもの”が放つ、深い褐色の輝きがある。レトロ、ヴィンテージ、アンティーク・・どの言葉も似合いそうだ。

モザイクガラスのテーブルライトからは、ぼんやりと青みがかった優しい灯りが滲みだす。

店内は10人入れば一杯という感じのカウンターと3組のテーブル席だけ。店にいる、というよりは、自宅でくつろいでいるように感じられる広さだ。


コーヒーはサイフォンでていねいに淹れられた上品な味。カップも、大切に扱われている感じの趣味が良いものだ。ミルクレープをロール状に巻いたケーキも美味。

川のせせらぎに耳を傾けながら、窓から流れこむ心地よい風のなか、ゆったりと時間を過ごす。北の町の澄んだ光が目にまぶしい。

外へ出れば、中津川に沿って風が爽やかに抜けていく河原の景色がひろがっている。

橋を渡り、さきほどまで居た『ふかくさ』を振り返ると、古い板葺きと土壁のぬくもりある塀の古民家がすぐ隣で、風景に溶けこむように寄り添っていた。

川沿いには、美しい小庭に『笛吹き少年像』など、目を楽しませるコーナーもある。

 

写真:乃梨花

雨と静寂に包まれた熊川宿でしっぽり<福井県三方上中郡>

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約1㎞にわたって古い町屋が軒をつらねる「熊川宿」。山間にある風情溢れる宿場町である。若狭の海で水揚げされた海産物はこの地を経て京都に運ばれ、最盛期には、1日約1,000頭にもおよぶ牛馬が行き交ったといわれている。当時の地割を今に残す「熊川宿」は1996年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、年間約40万人が訪れる観光地である。

 

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熊川宿は、東の宿場入口から西の宿場入口まで上ノ町(かみんちょう)、中ノ町(なかんちょう)、下ノ町(しもんちょう)の3地区で構成されている。当日は雨ということもあり、まずは車で上ノ町へ。道の駅付近にある鯖街道ミュージアムを見学後、街道へ向かった。何の気なしにふと足元を見ると、そこには「沢蟹」が。思わぬ珍客に戸惑ったが、とりあえず踏まなくてよかった・・・。

 

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上ノ町の子供たちがよく遊んでいるという巨岩。いまだかつて怪我をした子供がいないことから「子守り岩」と呼ばれている。目測ではあるが、高さ1m以上はあったと思う。権現神社と何かしらの関係があると言われるが、詳細はあきらかでない。

 

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現在、北川水系における幾多の水害や異常渇水などの問題を解決するために、平成31年度の完成を目指し、ダムの本体工事、付替道路の整備工事を進めている。この建物は、工事に従事する方たちの事務所および宿舎だ。伝建地区の景観を崩さぬよう、配慮がなされていたことに感銘を受けた。

 

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平成の名水百選にも選ばれている「前川」。家の前には水路で作業を行うための「かわと」と呼ばれる石段が造られている。当時は野菜を洗ったり、果物を冷やしたりと地域住民には欠かせない生活用水であった。また、400年の歴史を誇る熊川宿の景観には欠かせない水路である。

 

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旧逸見勘兵衛家住宅は、伊藤忠商事2代目社長である「伊藤竹之助翁」の生家である。平成7年、主屋、土蔵などが町指定文化財となり、その後、大規模な保存改修修理が行われた。現在は、一般公開のみならず、宿泊施設としても利用できるというから驚きだ。

 

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灰色の壁がひときわ目を引く「若狭鯖街道資料館」は昭和15年、伊藤竹之助翁により熊川村役場として建てられた。現在は資料館として活用されており、熊川ゆかりの古文書、宿場で使用された道具や古地図が展示されており、この地域の歴史を深く学ぶことができる施設である。

 

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中ノ町にある「まる志ん」さんでは、できたての葛料理が味わえる。熊川の葛は、儒学者「頼山陽(らいさんよう)」が「吉野よりよほど上品にて、調理の功これあり候」と評したことで知られている。こちらでは蕎麦粉に葛が練り込まれている「葛そば」を注文。鰹と昆布でとった出汁はとても上品。蕎麦はちゅるちゅるとした食感で出汁との相性も抜群。椎茸の甘露煮も良い箸休めになっていた。近くにあってほしい店である。

 

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前川と同様に、こちらも熊川宿に欠かせない景観だと感じた「御蔵道」。何気ない小さな路地だが、何とも言えない味のある雰囲気を醸し出していた。並走して流れている北川を往来した舟運の米が、この路地を通り、松木神社の蔵屋敷に持ち込まれたことが名の由来となっている。

 

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約1㎞の散策であったが、熊川宿は様々な歴史文化を見せてくれた。東の宿場入口にある熊川番所から始まり、町の中心であった中ノ町では道幅も広く当時の賑わいが伺えた。水路や路地は、街道を行き交う人々や当時の生活を支える重要な役割を持っていた。たとえ雨だとしても、ぜひオススメしたい観光地である。

 

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夜は小浜市にある「食彩 ごえん」さんにて会食。刺身はもちろん、若狭かれいの一夜干しやイカ姿つくりなど海の幸を中心に注文。若狭かれいは、手で頭を外してから身を割くのが若狭の食べ方だそうだ。イカはひとしきり刺身を楽しんだ後、げそ等を天ぷらに。やはり、知らない土地に来たら店主のオススメに従うのが間違いないなと感じた。

 

 

 

 

長い年月が生み出した広大な景勝地「耶馬渓(やばけい)」の見どころを探る②
<大分県中津市>

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前回紹介した本耶馬渓からさらに山間部へ車を走らせると、耶馬渓ダム湖が見えてくる。耶馬渓ダムは山移川の水を貯えた人口湖で、堤頂長313m・堤高62mの偉容を誇る。湖の周辺は視界がひらけ、耶馬渓特有の岩と若葉もみじが織りなす自然景観をたっぷり堪能できる。

 

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耶馬溪ダムのすぐ下流にある「渓石園」は、ダムの完成を記念して1987年(昭和62年)に造られた日本庭園。約2万平方メートルの敷地にはダムの水を利用して耶馬渓の渓流が再現され、100種3万1000本以上の樹木とともに整えられた美しさを見せてくれる。

 

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さらに、耶馬渓湖には全国初の公営水上スキー施設としてオープンした耶馬渓アクアパークがあり、ここでは、遊覧船やバナナボートなどアクティビティ以外に水上スキーやウェイクボードも楽しむことができる。しかも、インストラクターの指導もあり初心者でもOK! 日本有数の湖面コンディションといわれる耶馬渓湖で、水上スポーツに挑戦してみるのはいかがだろう。

 

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ダムに注ぐ山移川を遡ると深耶馬渓と呼ばれるエリアへ。一カ所にいながら八つの景色が見られることから一目八景(ひとめはっけい)と呼ばれる中心部は、一年中鮮やかな景観が見られる人気のスポット。周辺には展望台や遊歩道のほか、飲食店や宿泊・温泉施設が並び、懐かしい旅情も楽しめる。

 

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樹木が様々に色づく紅葉時は特にオススメ。深耶馬渓の入口にあたる県道沿いのモミジが鮮やかに色づき、美しいグラデーションのトンネルが現われる。約100mに渡ってつづく「ひさしもみじ」と呼ばれる一帯は、紅葉や新緑の時季ならライトアップされ昼間とは異なる色彩をみせてくれる。

 

③へ続きます

 

 

画像提供:公益社団法人ツーリズムおおいた

湊町・新潟を支えた商家の佇まい〜明治の豪商が暮らした町家『旧小澤家住宅』
〈新潟県新潟市〉

いまでこそ物流の要は陸路にとって代わられたが、江戸時代、新潟は日本海を航行する北前船などの回船や川舟が集まる寄港地であった。数々の商家が興っては没落する時代のなかで、小澤家は回船問屋などを営み順調に経営を拡大し続け、ついに新潟を代表する豪商となった。

『旧小澤家住宅』は、その小澤家の店舗兼住宅として建てられた町家形式の家。屋敷の一角には、明治13年以前の建築と見られる「道具蔵」がある。母屋部分は明治13年の新潟大火直後に再建されている。全体にかつての新潟町における町家の典型をよく残した造りとされる。

江戸時代後期に米穀商を営んでいた小澤家は、明治初期には何艘もの北前船を所有し、やがて回船問屋として財をなした。以降も、運送・倉庫業、回米問屋、地主経営と時代に沿った事業転換を成し、ついに大正期には県内で産出した石油を運ぶタンカー保有会社を有するほどの下越地方を代表する商家となった。

商家が立ち並ぶ一角にあっても、その凜とした佇まいと荘厳な面持ちから一線を画す風情がたちのぼる。

庭園は、明治末期に家財蔵・新座敷などの増築とあわせて築造されたと考えられている。古くからの伝統的な作庭技術を用いる一方、当時としてはまだ新しい“芝を張った”庭園は、社交や生活の場としても意図され、モダンな試みと見られている。

二階の窓まわりに残る焦げ跡などから、明治13年(1880)8月の大火以前の建築と推定される「道具蔵」。内部には小澤家伝来の道具類などが展示されている。

玄関から「道具蔵」へとL字型に配された「通り土間」。ふすまや千本格子から透かした陽がはいる風情はまた格別だ。

「道具蔵」の先から庭園へ。「百合の間」の軒下には藤棚が設けられ、4〜5月の開花期には見事な藤が行楽客の目を愉しませる。

次ノ間には、江戸時代後期の漢詩人・書家である館柳湾(たちりゅうわん)の漢詩が書かれた屏風が飾られていた。巻菱湖(まきりょうこ)、亀田鵬斎(かめだぼうさい)とともに江戸の三筆と言われた柳湾は、同じ新潟の出身である。

仏間に置かれた仏壇は、金箔や漆が贅沢に使われ、その豪華絢爛さには思わず目を見張った。

屋敷の中で最も眺望に配慮された「百合の間」は、来賓用の座敷。庭と反対側の側廊・戸板に嵌められた優美なアンティークガラスも美しい。

「百合の間」の正面に、景勝地「松島」を模した築山が配された庭。石や名木、石灯籠で「シマ」や「ヤマ」を表現した、伝統的な枯山水と言われる作庭法だ。

四国や紀州から取り寄せた青緑色の石、佐渡の赤玉石、佐渡の金銀山で使われた石臼、須弥山を表した立石群、京都の陶工による灯籠など、庭園のなかには趣向を凝らした石が多く配置されている。

 

写真:乃梨花