「四国遍路 愛媛県②」 ~煩悩を断ち切る「菩提の道場」~
<愛媛県松山市>

■第51番札所 石手寺

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創建時は安養寺と名付けられたが、弘法大師が真言宗に改宗した際に「石手寺」とした。これはお遍路の元祖と伝わる衛門三郎の伝説によるものとされる。観光客が多く、国宝に指定されている仁王門を筆頭に、数多くの重要文化財を有する人気スポットだ。

 

■石手寺 マントラ洞窟

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マントラ洞窟は本堂大師堂の裏手にある少し変わったスポットだ。暗い人工窟の中には沢山のお地蔵さんが並べられている。平成元年に掘られて以来、海外の観光客を中心に人気となっているらしいが、何のために掘られたかは誰も知らないそうだ。

 

■石手寺 子授け鬼子母神

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鎌倉時代に建立され、国の重要文化財に指定されている訶梨帝母天堂(かりていもてんどう)の「子授け鬼子母神」は子授け、安産にご利益があるといわれる。お堂にある石を安産のお守りとして持ち帰り、無事に出産したら、石をふたつにして返す風習がある。

 

■三津浜焼き

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三津浜地区の方が愛してやまないソウルフード。味付けされた麺やちくわを薄い生地にはさんで仕上げるのが特徴。ソースは店舗ごとに工夫が施され、マヨネーズを使う場合もある。大正時代には洋食として販売されており、当時はソースがかかっていれば洋食とみなされていたそうだ。

 

■松山鮓

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松山地方に伝わる「松山鮓」は、祝い事や客をもてなす際にふるまわれる郷土料理だ。夏目漱石が友人の正岡子規を訪れた際に松山鮓でもてなされ、とても気に入ったという。少々、甘めの酢飯に錦糸卵をのせ、旬の魚介をちりばめる。彩り豊かなご馳走である。

 

■あなごめし

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瀬戸内海で獲れた新鮮なあなごを使用した郷土料理で、漁師料理が発祥といわれる。この地域では鯛、たこ、あなごを使ったご飯を「海ごはん」と呼んでいるそうだ。こちらは「あなごめし」。かば焼きにしたあなごをご飯にのせるシンプルな料理だが、誰にでも愛されるやさしい味だ。

 

 

 

 

オリーブの島。それだけじゃない小豆島①
<香川県小豆郡>

■土淵海峡17f6ef333222bc16b5416be5b5340094

一風変わった世界一を保持する「土淵海峡」。実は、世界一狭い海峡として1996年にギネスブックへ認定されている。幅はわずか9.93m、河川であったとしても小さな部類だ。この海峡を横断すると、土庄町役場にて「世界一狭い海峡横断証明書(100円/枚)」を発行してもらえる。旅の記念にオススメだ。

 

■エンジェルロード

大切な人と手をつないで渡ると、願いが叶うと言われている。別名「天使の散歩道」。一日二回、引き潮の際に海の中から砂の道が姿をあらわす。引き潮の時間は、日によって異なるので、チェックが必要だが、ぜひ訪れてみたい観光スポットだ。近くにある「約束の丘展望台」からは全景が見渡せる。こちらも併せて訪れたい。

 

■虫送り

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田畑の害虫を駆除し豊作を祈る伝統行事「虫送り」。約350年もの間、肥土山にて行われている。中山でも約300年間前から行っていたが、途絶えてしまっていた。しかし近年、ある映画にて虫送りの撮影が行われたことをきっかけに復活。夕暮れの中を、大勢の灯りが列をなして動く姿は、非常に幻想的である。

 

■農村歌舞伎

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親しみやすい名前のこちらは、江戸時代から続く小豆島の伝統芸能である。かつては30ヵ所以上で賑わいをみせていたが、現在は、肥土山と中山の2ヵ所のみで行われている。大阪で歌舞伎を見た人々が、歌舞伎の名場面を描いた絵馬や衣装を神社に奉納した事が始まりとされている。中山の農村歌舞伎は昭和62年に重要有形民俗文化財に指定された。

 

■花寿波島(はなすわじま)

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大小2つの島の間から顔を出す朝日が、地元カメラマンに大人気である花寿波島。ここは三都半島の沖に浮かぶ無人島だ。「波の上に浮かぶ美しい島」という意味が、名前の由来らしい。朝が苦手な人も「早起きは三文の徳」を実感できる景色に出会えるだろう。

 

■大阪城残石記念公園

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大阪城残石記念公園は、約400年前、大阪城を修復する際に切り出された岩のうち、使われることがなかった約40の残石が現存じており、それに隣接して西隣に整備された公園だ。公園内にある展示室では、古文書や石の運搬に使われた道具などが展示されており、当時の様子がわかり易く再現されている。石で栄えた小豆島ならではの施設だ。

北野異人館街、そして坂のある裏通りを歩く
<兵庫県神戸市>

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重伝建というとつい土蔵造りや武家屋敷のような日本的町並みを思い浮かべるが、ここ北野異人館街は函館と同様に洋館が中心の重伝建地区である。昨今、文化財は“いかに残すか?”から“どう活用するか?”へ課題が移りつつあるが、この建物、写真ではわかりにくいが、じつは内部がスターバックスになっている。1907年の建築で、震災被害により取り壊し予定だったものを、現在地へ移築・再建されたのものという。日本各地に町屋カフェなどがたくさん出来るようになったが、スタバというのは時代の変化を感じさせる。

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北野通りの中心で目立っているのが、この「ベンの家」。英国貴族の旧邸といい、「白頭鷲」「イッカク」「ヌー」など珍しい生き物の剥製が館内にずらりと並ぶのが見ものである。

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ちょうど向かいの細い坂道を登っていゆくのが、おすすめのコース。坂の上からは、洋館の向こうに神戸の町が遥かに望める。

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風見鶏の館」はドイツの貿易商が自邸として建てたもので、レンガ造りはこの地区で唯一。名称の由来である尖塔の風見鶏は、北野異人館街の象徴といってもいい。

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館内はドイツ様式のなかにアール・ヌーヴォーを感じさせ、重厚な雰囲気がいかにもヨーロッパを思わせる。

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二階のサンルームから神戸の街が見渡せる「萌黄の館」は、アメリカ総領事の邸宅であったといい、対照的に明るい雰囲気である。先の震災で屋根から落下した3本の煙突のひとつが、モニュメントとして庭に保存されていた。

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さて異人館エリアと三宮駅を行き来するには、北野坂が定番コースだが、ちょっと裏道を散策してみよう。北野通りを英国館の手前から脇へ入り、なかなか風情のある細い坂道を下る。やがて見えてくるのが「神戸パブテスト教会」である。尖塔のある白壁の教会堂と棕櫚の木の組み合わせが、異国情緒を醸し出していて印象的である。

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さらに下って左の路地へ入ると、「神戸ハリストス正教会」が見える。大きな建物ではないが、細い坂道と周囲の住宅地にしっくり馴染んでいて、この土地の歴史と伝統を感じさせる。

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そのすぐ下手には「一宮神社」がある。神戸には、生田神社を囲むように一宮から八宮まで「生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)」と呼ばれる神社があり、数字の順にめぐると厄除けの御利益があるといわれる。一から八まで順番がついたのは、神功皇后(じんぐうこうごう)が巡拝された時とも伝わるのだそうだ。

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もう少し下ると、この風景。どうだろう?ありきたりの景色にも見えるが、どことなく神戸らしさを感じないだろうか?細い坂道と、向こうに迫った山と、なんとなくエキゾチックな匂いと、そしてこのオバチャン。神戸の町は、どこへ行っても、こういう匂いの一角がある。まさに町の歴史が発散する雰囲気なのだろう。観光整備された異人館街も素敵なのだが、こういうなにげない路地を巡ると、神戸の町歩きはさらに奥深くなると思う。

加賀前田家ゆかりの町人文化が花咲くまち高岡
-人、技、心- <富山県高岡市>

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1609(慶長14)年加賀前田家二代当主・前田利長による高岡城築城にあわせて、町としての基盤が形成された高岡だが、1615(元和元)年に発せられた「一国一城令」により高岡城は廃城。城下町としての存続は厳しい状況になってしまうも、加賀藩3代当主・前田利常はあきらめることなく、商工本位の町への転換政策を実施した。加賀藩は利常没後も意志を継ぎ、それに町民がこたえる形で町は発展への道を歩み始めたという。

 

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その結果、高岡は商人の町であると同時に職人の町として開花。町民自身が「地域に富を還元し町の発展に貢献する」という独特の気風を持った文化が生まれ、現在も、町割り・街道筋・生業や伝統行事など、様々な部分で町民の歩みや心意気が色濃く残されている。競い合いながら発展を続けてきた気質は、DNAとしてこの町に住む人々に受け継がれているのだ。

 

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町に住む一人ひとりが、歴史と文化を継承しながら新たな魅力を創り続ける高岡市。この町をおとずれれば、地域を愛する心意気を感じることができる。町の歴史・文化継承と進化・革新は同一線上に続いていく…高岡の人々や営みはそれを教えてくれるだろう。

 

 

高岡山 瑞龍寺(国宝)

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加賀藩二代藩主・利長公の菩提を弔うため、三代藩主・利常公によって建立された曹洞宗の名刹であり、1997年には山門・仏殿・法堂が国宝に指定されている。江戸初期の禅宗寺院建築としても高く評価されており、豪壮にして典雅な美しさは訪れた者を魅了する。

 

高岡城跡(国指定史跡)

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廃城となったあとに米や塩の倉庫が建てられ、城下町から商工の町に転向する礎となった高岡城の跡地は、「高岡古城公園」として多くの人々から愛される憩いの場となっている。野趣あふれる園内には、博物館や自然資料館、動物園などのお出かけスポットのほか、市民会館や体育館など公的施設もあり、いまでも町の中心的存在。日本さくら名所100選にも選ばれており、春は花見客で賑わう。

 

高岡御車山(重要有形民俗文化財)

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御車山(みくるまやま)は御所車形式に鉾を立てた特殊なもので、日本でも屈指の華やかな山車(やま)。7基の山車が奉曳(ぶえい)巡行される「高岡御車山祭」は、毎年5月1日に行われ、国の重要有形民俗文化財・無形民俗文化財の両方に指定されている。各町が伝承している山車は、高岡金工漆工の粋を集めた美術工芸品としても高い価値があり、祭礼時以外も「高岡御車山会館」で観覧が可能だ。

 

山町筋重要伝統的建造物群保存地区(重要伝統的建造物群保存地区)

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山町筋は、重厚かつ繊細な意匠を持つ土蔵造りの伝統的建造物が立ち並ぶ地区であり、近世初頭には米商会所が置かれ、綿市場の拠点として高岡の経済的な発展に大きく貢献。高岡御車山を所有・継承していることから「山町」と呼ばれており、高岡御車山祭ではこの地区を中心に繰りひろげられる。

 

金屋町重要伝統的建造物群保存地区(重要伝統的建造物群保存地区)

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金屋町は、高岡開町に際し前田利長が鋳物師を招き、東西50間、南北100間の土地を与えて鋳物づくりを行わせたことに始まる鋳物師町。意匠的に優れた外観の町家や、作業場や土蔵など鋳物製造に関わる建物が今日までよく継承されており、歴史的風致を楽しむ町歩きができる。建物正面1階の出入り口には大戸を建て構え、「さまのこ」と呼ばれる格子を設けるものが多い。

 

伝統的工芸品  高岡銅器

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1611(慶長16)年に前田利長公が近郷から招いた7人の鋳物師 (いもじ)から受け継がれててきた高岡銅器。毎年6月19・20日には、当時の作業を今に伝える御印祭 (ごいんさい)が行われている。国の伝統的工芸品として、現代に至るまで新しい技法を生み続けている。

 

伝統的工芸品  高岡漆器

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高岡城築城時に、城下町の一つとして作られた指物屋町(さしものやちょう)。そこで作られた家具に漆を塗るようになったのが高岡漆器の始まりといわれている。青貝塗、彫刻塗、勇助塗などの受け継がれてきた独特の技術を基に、いまもなお多岐にわたる製品づくりが行われている。

 

 

写真提供:とやま観光推進機構

大坂夏の陣、真田幸村終焉の地をめぐる
<大阪府大阪市>

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これぞ大阪!といえば新世界、そして通天閣。最近は新世界も観光名所になって、昔とはずいぶん雰囲気が変わってしまったけれど、まあこの賑やかな看板に埋もれるように見える通天閣は“やっぱし大阪でんなぁ”。

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繁華街を抜けると、天王寺動物園。大正4年開園、日本で3番目に古いのだそうだ。朝から飲める店が並ぶジャンジャン横丁と家族連れが憩う動物園が共存している。町の成り立ちは浅草とよく似ている。

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さて、通天閣の見える松屋町筋の歩道橋を渡って25号線を東へ、四天王寺のほうへと向かう。すると道はかなりの上り坂になる。ここから、いわゆる上町台地へと登るのだ。多くの古い大阪の史跡は、古代から葦原の広がる低湿地帯だった「難波潟」を南北に背骨のように貫くこの台地の上にある。

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坂の途中、左手に安居天満宮(安居神社)という看板を発見した。真田幸村戦死の地と書かれている。通りから細い路地を通って奥へ行くと、森閑とした神社の境内に至る。真田幸村戦死跡という石碑と幸村の座像がある。徳川へ寝返るよう再三誘われたが、豊臣への“義”を貫いた幸村は、享年49才の最期をここで迎えたのだという。

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神社の裏手は、こんな急な下り階段になっている。神社のある場所は、ちょうど上町台地の縁に当たっているのだ。こういう地形的な境界線上には、古来より霊的な力があったのだろう。

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石段を下りきると、台地へ登ってゆく石畳の上り坂。「天神坂」という石柱がある。なかなか良い坂道である。かつては神社境内の井戸から「安居の清水」といわれる名水が湧いたのだそうだ。江戸期には上町台地の縁から湧き出る水を、各所で汲んで売り歩いたのだともいう。

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では今度は25号線を渡って、天王寺公園内にある「茶臼山」へ。標高は26mで、前方後円墳だといわれているが、古墳ではないという説もあり決着はついていないようだ。それはともかく、真田幸村が最後にここに布陣し、徳川方の軍勢と激戦を繰り広げた場所として歴史に残る地である。南側の「河底池」から見る「茶臼山」は、静謐のなかに霊気のようなものを感じる。右手の朱塗りの「和気橋」を渡って茶臼山へ登る。

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山頂に登ると、大坂夏の陣の配陣図や幸村の名言がパネル展示されている。“恩義を忘れ、私欲を貪り人と呼べるか”・・・講和と称して堀を埋められ城を丸裸にされて、それでも家康に伏することなく、最後まで戦った幸村らしい言葉。日和見で損得勘定ばかり考える現代人には耳が痛いか。

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ここまで来たら、やはり四天王寺だろう。593年聖徳太子(厩戸皇子)によって建立されたといわれる。残念ながら建物はほぼ戦災で焼けたのちの再建だが、鎌倉時代などの建築と比べると、大陸の建築様式を取り入れた飛鳥時代の伽藍の雰囲気がよくわかる。

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そしてまた京都や奈良の寺院と違うところは、たいへん庶民に親しまれていることだろう。地元では四天王寺とはまず呼ばない、「天王寺さん」である。鶴瓶の師匠である六代目笑福亭松鶴が得意とした落語「天王寺詣り」では、境内の様子が面白おかしく語られて、庶民と寺院の親しみある関係がよく描かれていた。中門の両側にある赤と青の巨大な仁王像もなぜかユーモラスに見える?そして池のカメたち。このカメたち、上記の落語はもとより、大阪では漫才やら新喜劇やらによく登場する。現物を見たことがなくても、“天王寺のカメ”といえば、大阪人なら“あ~知ってるでぇ”というハズ。そういう屈託のなさが上方の文化なのだろう。

白壁土蔵の酒蔵通りと茅葺町屋の河港、二つの重伝建が見事な町
<佐賀県鹿島市>

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博多からJR特急で約1時間、肥前鹿島で各駅停車に乗り替えて5分ほど、肥前浜駅から徒歩数分で重伝建地区へ到着する。煉瓦造りの煙突が見えると、いかにも酒造の町という風情が漂ってくる。

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「肥前浜宿」は、有明海へそそぐ浜川の河口にできた在郷町で、宿場としてまた酒造の町として発展したところである。ゆるやかにカーブする街道の両側に、白壁の土蔵造りが建ち並び、美しい歴史的景観を形作っている。

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ちょうど地区の入口付近にある煉瓦壁の医院。現役で使用されているようで、なかなか素敵である。

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その右隣にあるのが「継場」、かつては宿場での人馬の交換業務、いわゆる継立てをした建物である。馬をつなぐ鉄の輪や帳場の跡などが残っており、現在は観光案内所として活用されている。

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元は郵便局だったというこの洋風建築は、昭和初期のものだといい、現在は公民館になっている。出来た当初はずいぶんハイカラに見えたのかもしれないが、いまは土蔵造りの町並に自然にとけこんでいる。

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右手の「中島酒造場」は明治18年の建築、その向かいの「旧中島政次家住宅」は明治27年の建築といわれている。

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酒造業が盛んになったのは、元禄年間(17世紀後半)だということで、天保9(1838)年には9軒の酒屋があったそうだ。いまも操業する蔵が数軒あるので、二百年間現役で培われてきた文化の醸し出す風景ということだ。見事というほかない。

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お酒をはじめお土産品などを扱う「肥前屋」のお店の奥は、昭和レトロたっぷりの展示コーナーになっている。壁には懐かしいシングルレコードがずらり!やっぱりレコードジャケットっていいよねえ。そっと盤を取り出して、ターンテーブルに置き、針を落として、ジャケ写を眺めながら聴く、ネット配信にはない楽しみだった。

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さて、浜川の橋を渡ったところ「浜庄津町浜金屋町」は、がらりと雰囲気が変わる。商人、船乗り、漁師、鍛冶屋などが住んだところといい、茅葺や桟瓦葺の町家が建ち並ぶ一帯は酒蔵通りとはまったく趣がちがう。

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茅葺の建物はまだ日本各地に多数残ってはいるが、だいたいは農家や社寺が多いのではないだろうか。こういう港町にある茅葺の町屋が残っているのはあまり見かけない。屋根に向けてスプリンクラーが設置され、とても大切に保存されいるのがわかる。白壁土蔵と茅葺町屋、駅から歩けて、ふたつの異なる歴史空間がたっぷりと楽しめる、ぜひ一度肥前浜宿をめぐってみることをおすすめする。

陶石の中継地“川湊”として栄えた塩田津の魅力
<佐賀県嬉野市>

博多駅より肥前鹿島駅まで特急で約1時間、駅前よりバスで嬉野市役所塩田庁舎まで約10分ほど、そこからは歩いてすぐ塩田津の町並に至る。

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ここは三方を山に囲まれた町の中央に「塩田川」が流れており、海から干満の差を利用してここまで船が入ってくる川湊だったため「塩田津」と呼ばれたところ。鉄道や自動車が発達するまで物資運搬の中心が舟運であったことは、他所でも触れているが、現在では河川舟運は廃れてしまったので痕跡が残る町は貴重である。ここで主に取り扱われていたのは陶石。有明海を南へ下ったところ、天草で採れる最高級の「天草陶石」を船でここへ運び、ここから陶器生産で有名な「有田」や「伊万里」へ陸路を運ぶという物流の中継地として発展した町だ。
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川湊としてだけではなく「長崎街道」の宿場町としても栄えたこの町には、いまでも白壁の大きな家が建ち並んでおり、一帯は「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。その大きさに圧倒される「杉光陶器店」は、約160年前の建物で、かつては廻船業も営んでいたそうだが、現在は陶器店として陶器や雑貨などを扱っている。

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その隣の「西岡家住宅」は、かつてこの地域の屈指の豪商であり、建物は国の重要文化財にも指定されている。内部へはいると、重厚な箱階段、太い梁や柱、吹き抜けの座敷、組子の欄間など、廻船業を営んだ当時の華麗な生活を窺い知ることができる。

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石畳の路地の奥に寺院の山門が見える、こんな風景はかつて日本の各地で見られたものだが、こういう風情はいまでは貴重なものになってしまった。

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ここはもと「天草陶石」の集荷施設であり、「肥前陶土工業協同組合」の事務所として利用されていたという。現在は「町並み交流集会所」として活用されている。

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面白いと思ったのが、この小屋の下にある鉄板。すぐ裏の川からスロープがついているので、船を引き揚げて修理等をするのに使ったのか?と思ったのだが、じつは計量装置であった。鉄板の上にトラックを載せ、川から荷揚げした陶石を積み込み、車ごと荷重を計量したのだという。管理をされている女性の方から、とても親切に説明していただいた。

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裏は「御蔵浜」と呼ばれる荷揚げ場で、船から荷をおろすためのクレーンを支えていたコンクリート台座がいまも残っている。塩田川は河川工事によって本流が町の外を流れるようになり、いまはこの付近の水量は減ってしまったが、かつて川湊であったことを彷彿とさせる風景だ。

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この洋風の建築物は1940年に建った消防団の建物で、いまも現役で使用されている。こういうモダンな建物がちゃんと利用されているのを見ると、古い町を残そうという地元の方々の誇りと意気込みを見る思いだ。

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ふと見ると、近くのガレージで猫たちがお寛ぎ中であった。毛並もキレイなので大事にされているのであろう。ここにも町のあたたかさが見えると思った。

今シーズンもいよいよ開山! 日本最高峰の山はアクセスも豊富
<静岡県・山梨県>

fuji001日本国内にとどまらず、国外の様々な国でもその名を知られる富士山。標高3776mにある頂上は日本最高地点であり、独立して屹立するその優美な姿は日本人に深く愛され続けている。物理的にも心情的にも日本のシンボルと言ってよい山だろう。古くは霊峰として崇められ禁足地であったが、室町時代ごろから庶民にも登山が浸透しはじめ、江戸時代には富士山に登るための仕組み「富士講」が各地域で広まった。近年は観光地としての側面も大きく、環境面への配慮から「入山者規制論」がでるほどの人気である。

 

fuji002bそんな富士山の登山道が開かれるのは、夏の約2か月ほど。4つある登山コースによって多少のズレはあるが、基本的には7月上旬~9月上旬が登山期間となり、国内外・老若男女を問わず多くの人々が訪れる。五合目まではシャトルバスなどでアクセスできるが、そこからのコースタイムは最短でも往復8時間以上。標高3000メートルを超えたあたりからは、高山病のリスクも大きくなるので、事前に情報をチェックしてきちんと対策しておく必要がある。

 

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しかし、期間中は登山道がしっかり整備されているほか、多くの山小屋も営業しているので、装備と時間をしっかり用意しておけば頂上まで登れる確率は高まる。山頂付近から御来光を拝むのを目的とした夜間登山も活発で、特に混雑する週末は、登山者の持つライトが「光の帯」のように見えることもあるほど。

 

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決して楽ではない富士登山だが、山頂付近からの眺めや荘厳な御来光は厳しさを上回る感動を与えてくれる。点から水平へとのびる光が暁の空を切り裂き、そこからぐんぐんと昇り拡大していく太陽は神々しいの一言。8月でも平均気温が6℃しかない山頂で冷えた体が、日が昇るとともに温まっていくと、偉大な力が実感できる。もし御来光が拝めなくても、富士山に登ったという達成感や満足感は得られるはずだ。

 

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また、富士山は登るだけではなく、信仰や芸術面からアクセスする楽しみ方もオススメ。2013(平成25)年には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録され、その構成資産だけでも静岡・山梨の2県12市町村にわたり点在している。これらを見て回れば、なぜ「富士山が日本のシンボルとして揺るぎない」かが理解できるだろう。「登る」「見る」「知る」日本一の山との接触は、様々なバリエーションに溢れている。

 

写真提供:静岡県観光協会

「四国遍路 愛媛県①」 ~煩悩を断ち切る「菩提の道場」~ <愛媛県松山市>

四国の中で札所が最も多い伊予国、愛媛県。景色は太平洋から瀬戸内海へとうつり変わる。己の心を知り、煩悩に立ち向かう「菩提の道場」は、雄大な自然と美しい島々に囲まれた、表情豊かな土地だ。

 

■第45番札所 岩屋寺

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弘法大師が入山した815(弘仁6)年には、空を自由に飛び回る神通力を持った法華仙人が存在していたという。仙人は弘法大師に帰依し、全山を献上したのち往生を遂げたと言われている。

 

■岩屋寺 逼割禅定(せりわりぜんじょう)

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逼割禅定はかつて弘法大師が修行を行った場所だ。山門から険しい山道を300mほど上り、さらに鉄の鎖を伝いながら10mほど絶壁を上る。そして、21段のはしごを上ると頂上にたどり着く。そこからの眺望は圧巻であるが、難所なので体力のある方にオススメしたい。

 

■岩屋寺 庫裡(くり)

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庫裡とは僧侶たちが生活する場所をいうことが多く、台所を兼ねている場合がある。岩屋寺の庫裡は、岩に張り付くように建っているのが特徴である。

 

■第46番札所 浄瑠璃寺

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浄瑠璃寺は四国霊場にまつわる伝説上の人物「衛門三郎」の故郷といわれる松山市に建つお寺だ。江戸時代に火事でほとんどを焼失したが、本尊、脇侍は火を免れた。さまざまなご利益があるといわれる石碑が多く残っており、見どころが多い。

 

■浄瑠璃寺 説法石

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「お釈迦様が説法され修行されたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)の石を埋め込んであります」と説明書きがある説法石。多くのお遍路さんが訪れ、説法石に腰をおろしている。

 

■浄瑠璃寺 仏足石

 

東北で唯一現存の天守閣~弘前城~
<青森県弘前市>

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桜の名所として多くの観光客が訪れる弘前城。鷹岡城、高岡城とも呼ばれ、江戸時代に建造された櫓や天守は国の重要文化財、城跡は国の史跡に指定されている。大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行い、1611(慶長16)年、 わずか一年と数ヶ月で完成した。

 

 

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風ひとつない晴れやかな天気だったせいか、非常に落ち着いた表情をみせていたお堀。桜の季節も良いのだろうけど、個人的には新緑の季節がオススメだ。

 

 

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国の重要文化財に指定されている「二の丸東門」。一階正面の柱にはケヤキ板を化粧のための鏡板として使用するなど、内廻りの門として配慮がなされているそうだ。少々色あせた柱に触れてみると、何とも言えない温かみを感じた。

 

 

東北で唯一現存する天守閣。層塔型三重三階の建物で、こぶりながらも風格が感じられる。

 

 

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現在は、天守付近の本丸石垣の膨らみや天守の傾きがある事から修理が行われていた。驚いたのは、石垣からずりずりと引きずられながら、約70mの距離を三ヶ月間かけて移動されたこと。ポツンと佇むその姿は長く寄り添った相方と引き離され、イジケテいるようにも見えた。

 

 

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修理が行われている本丸石垣。近くには番号が振られている石垣が、丁寧に保管されていた。無事に修復を終え、一日も早く本来の姿を取り戻してほしいと願うばかりだ。