江戸時代に“誰もが一生に一度は行く“と言われた場所は?
〈長野県長野市〉

「牛に引かれて善光寺参り」という諺でも知られる長野県・善光寺は、年間700万人が参詣する日本の一大霊場。中世初期の縁起によれば、創建は642(皇極元)年と伝えられているが、最新の発掘調査では同じ7世紀の〈後半〉という説もある。いずれにしろ日本に仏教が伝来したのが欽明天皇の六世紀中頃と言われているので、善光寺が興るまで、そこからわずか1世紀。日本がまだ宗派に分かれる以前から存在した寺として知られる。
0006r
最初は地方(信濃国)の小寺院にすぎなかった善光寺も、信仰を集め、今日では日本を代表する大寺院となった。現在もどの宗派にも属していないが、住職は、天台宗の「大勧進貫主」と浄土宗の「大本願上人」の両名が務めている。また、絶対秘仏の本尊(一光三尊阿弥陀如来)は日本最古とされている。
1279
山号は定額山(じょうがくさん)。山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営がされている。
0477r
二度の焼失を経て大正7年に再建された仁王門の左右には、彫刻家・高村光雲とその弟子・米原雲海の合作による阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の気迫に満ちた仁王像が仏法護持にあたっている。
0681
『濡れ仏(延命地蔵)』は、享保7年(1722)に六十六部(日本全国を行脚する巡礼者)の供養のため、法誉円信が広く施主を募って増立された。江戸の大火の火元となった罪で処刑された「八百屋お七」の冥福を祈って恋人の吉三郎が建てたという言い伝えもある。
0036_r
『六地蔵』は、仏教の六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)に対応した6体の地蔵菩薩のこと。この6つの世界でそれぞれ衆生を苦しみから救ってくれるという慈悲深いお地蔵様たちだ。
0694r
善光寺は、京都や奈良の寺院ではまだ戒律から「女人禁制」を唱えて女性の境内立ち入りを拒むことが多かった時代において、女性の救済も男女の別なく受け入れた点で、斬新だった。
0001b
天台宗の本坊「大勧進」の大門は、寛政元年(1789)建立。境内には、善光寺に関する貴重な史料が集まる宝物館などがあり、必見!
1364rr
放生池は、天明の大飢饉のさい、大勧進が衆生の救済のために蔵米を放出し、その返礼(奉仕)で築造されたという。この日は気温が低く池は凍っていたが、初夏には大賀蓮というハスの花が池面を美しく彩るのが見られる。
0687r
寛延三年(1750)に建立された二層入母屋造りの山門(三門)は重文指定。元文年間の出開帳で得た浄財により、建立された。大正年間に檜皮葺(ひわだぶ)きの屋根に葺き替えられ、平成に入って建立当時のサワラの板を用いた栩(とち)葺きに復元された。
0741
川越の『時の鐘』と同じく「残したい日本の音風景100選」に選ばれている善光寺の鐘楼は音だけではなく姿も美しい。
0778rr
山門をくぐると目の前に現れる巨大な伽藍が本堂だ。江戸時代に再建された国宝建造物で、正面に比較して奥行が長い特徴(のためT字に見える)から「撞木造(しゅもくづくり)」と呼ばれる。全国一の面積を誇る総檜皮葺きの屋根は迫力のスケールで圧巻。東大寺大仏殿、京都の三十三間堂に次いで3番目となる敷地面積は、かつて全国から集まった宿泊参拝者が寝泊まりすることを前提としたものだった。(最大で148畳の大広間を有する時期もあった)。

 

写真:乃梨花

観光施設も充実! 筑波山の二峰を巡る神々の通い路
<茨城県つくば市>

tukuba3_00女体山山頂までは、前回の記事紹介したコースを歩いても1時間半ほどでつくが、ロープウェイに乗ってしまえば数分で到着。どちらも写真中央の少し左にある駐車場あたりがスタート地点。

tukuba3_01
ロープウェイの駅からは数分で女体山山頂へ。山頂にある岩の上に「筑波山神社 女体山ご本殿」が建てられ、筑波山の主神のひとり「伊弉冊尊(いざなみのかみ)」が祀られている。山頂付近のため広いスペースはなく、ご参拝は社と御朱印などをいただける社務所を大きく一周する感じでおこなう。

tukuba3_02
社のすぐ先が筑波山の最高地点(877m)になり、景観も良いためかなりの人気スポット。取材時はあいにくのキリ発生で男体山でさえ見えたり隠れたりといった状況だったが、女体山山頂は気象条件が良ければ関東平野が一望でき、初日の出も関東で一番早くみることができる絶景スポットでもある。

tukuba3_04女体山から男体山の間は伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冊(いざなみ)の二神が常に往来する場所として「御幸ヶ原」と名づけられている。その距離は人の足で歩いて30分程度で、美しい自然と景色が楽しめるのはもちろん、ガマ石やセキレイ石といった名のある岩もあり楽しい散歩道だ。天候が悪化しても徒歩10分圏内にロープウェイ・ケーブルカーがあるので、男体山・女体山の両方にお参りするのがオススメ。

tukuba3_05
男体山山頂のそばには、ゲーブルカーの駅と飲食店やお土産屋がならんだ広場があり、山の上ということを忘れてしまいそう。

tukuba3_06
どこか懐かしさを感じる「コマ展望台」は1階が売店・2階がレストランになっているのだが、どちらも利用しなくても屋上の展望台へは無料で入場可能。

tukuba3_08
広場の一角にある女性も安心してつかえる清潔な公衆トイレは、筑波山が軽登山先として人気がある理由の一つ。上の方に写っている建物のあたりに男体山の山頂があり、30分ほどで往復できる。

tukuba3_11
男体山山頂(871m)には「伊弉諾神(いざなぎのかみ)」が祀られた社と、御朱印などを頂ける社務所がある。女体山山頂よりも狭く視界も悪いので、ご参拝が済んだら次の人に場所を空けよう。

tukuba3_15
男体山の絶景スポットは山頂ではなく自然観察路の途中にある。樺太が島であることを発見証明した間宮林蔵が祈願したという立身石の上は特にオススメ。狭いが開放的で見晴らしは最高。このときは、幻想的な光芒を見ることができ、晴天でなくても美しい景色が拝めた。梅の時期には梅林を上から見下ろせる穴場にもなる。ただし、柵やロープなどは設置されていないので、夢中になりすぎて落ちないように注意が必要だ。

キング!クイーン!ジャック!カードみたいに集めたくなる(?)横浜三塔めぐり
〈神奈川県横浜市〉

横浜三塔をご存知ですか?キング・クイーン・ジャックの愛称で知られる横浜市の歴史的建造物は、入港する船の外国人船員たちがトランプのカードに喩えて名づけたそうです。外観からはトランプよりも?むしろ『チェス』のキングとクイーンにそれぞれのイメージが近いため、一瞬「チェスの間違いじゃ?」とも思いましたが、いえいえ(冷静に考えれば)チェスにはジャックがおりません。
IMG_1726
キングと呼ばれる神奈川県庁の建物は、全体的にクラシカルでスタンダードな雰囲気。昭和初期に流行した帝冠様式のはしりで、スクラッチタイル張りの外壁と中央の高塔が特徴的です。(1928年竣工。設計は小尾嘉郎)
IMG_1742
貴婦人のようにエレガントな印象のクイーンこと横浜税関本関庁舎は、3つの中では、紅一点(女性名詞)の存在。イスラム寺院風のエキゾチックなドームが特徴のこの建物は、税関らしく正面を港に向けて建っています。(※写真は背面を撮影)
IMG_1749
1934年の竣工時の建物を残したまま、平成15年には改修・増築工事も完了しました。この位置から写真を撮ると、まるでハリウッド・ブールバードかどこか?異国の雰囲気です。
IMG_1795_b
トランプカードの絵札の中では王様と王妃様より“格下”のジャック。ところが、横浜三塔の中では、王様より偉いかも(?)しれません。もっとも歴史が古く、三塔の中で唯一、国の重要文化財に指定されています。このジャックこと横浜市開港記念会館は、横浜開港50周年を記念して、大正6(1917)年に市民の寄付によって建てられました。(設計は福田重義)
IMG_1799rr
この建物は、赤煉瓦に白い花崗岩が縞模様のアクセントで入っている、当時の日本では数少ない近世ルネッサンス式建築。時計塔や八角ドーム、角ドームが特徴的で、大正期には横浜の政・財界や文化関係者を対象とした社交場(サロン)としても活躍しました。

IMG_1845_r
「ジャック」のドーム部分の真下に位置する特別室は、上品なコーラルピンクを基調とし、格調高い雰囲気。じつは、8角形の部屋に、8角形のテーブルが設えてある「入れ子」構造です。
IMG_1857
毎月15日に限り、一般公開される講堂は、古典的な佇まいの美しいホールです。この会館を使った講演会や演奏会は、当時は権威を象徴するものでしたが、現在は一般公開日には「20分以内ならば誰でもピアノの演奏OK」になっています。
IMG_1898
三塔見学のあと、ランチに訪れたのは、市認定歴史的建造物の旧横浜銀行本店別館。日本近代様式建築完成期の建物(昭和6年・1931)で、三角形の敷地を生かし、先端にトスカーナ式の列柱を並べた半円形のバルコニーを配する特色ある建築です。平成7年に、横浜アイランドタワーの高層棟と接続するかたちで復元されています。
IMG_1875b
このトスカーナ式列柱建築の雰囲気ある建物を利用した「カフェオムニバス」は、雑誌やドラマの撮影などにも使われる話題のカフェです。
IMG_1894r
この店のランチセットは、サンドイッチ・フォー・カオマンガイ・デミごはん、などの6種類の中から選べ、これに3種の前菜と飲みものがついて950円は、かなり良心的です。(写真は、オムニバスバーガー。)
IMG_1968_r
記念に『ベタなおみやげ(横浜三塔物語)』も買ってしまいました。

 

写真:乃梨花

【日本遺産の物語】
「四国遍路 高知県編」~回遊型巡礼路と独自の巡礼文化~
<高知県高知市>

 

弘法大師空海ゆかりの札所(ふだしょ)を巡る四国遍路は、キリスト教やイスラム教の巡礼にみられるような最終目的地を目指す「往復型」の巡礼路と異なり、四国一円に展開する日本を代表する「回遊型」の長距離巡礼路である。鎌倉時代には西行、法然、一遍も訪れたとされている。山道や最果ての岬などを「お遍路さん」が行き交う風景は、四国の風物詩となっている。

 

【修行の道場】

32f665e6e6c75ff07a476ba6dc3e14eb

高知県のお遍路は、四国で一番大きい県ということもあり、札所と札所の間が長いところが特徴である。札所も四国の中で一番少ない16ヶ所。よって、肉体的にも厳しいため、自らと向き合って苦闘する「修行の道場」と名付けられている。

 

【二つの聖地】

3c8db9a3491660cacd70b76dde9079d5

0e4cca41a18ffa6a119642720f46d2de

こちらは、青年時代の弘法大師が修行した足摺岬と室戸岬。ともに聖地とされている。

 

【最御崎寺(ほつみさきじ)】

c2d475450dff89a66481a4f53f4b2cae

第24番札所。高知県のお遍路は、ここから始まる。四国の東南端、室戸岬にあり、807年(大同2年)に創建されたとされる。また、地元では東寺とよばれている。本堂の近くには、空海の七不思議のひとつ「くわずいも」の伝説にちなんだクワズイモ畑がある。

 

【御厨人窟 (みくろど)】

h%e5%be%a1%e5%8e%a8%e4%ba%ba%e7%aa%9f

青年時代の弘法大師が悟りを開いたといわれる洞窟である。歴史を感じる鳥居があるこの洞窟は、約1200年前のものとされる。内には五所神社と呼ばれる社があり、「御厨人窟の波音」は「日本の音風景100選」に選ばれている。2015年より落石の危険があるため立ち入り禁止となっている。

 

【摩尼山 宝蔵院 国分寺(まにざん ほうぞういん こくぶんじ)】

c75fcad393b9893db0a182acf2b990d4

第29 番札所。 摩尼山 宝蔵院 国分寺。周辺に「土佐日記」で知られる紀貫之が国司をつとめた国衛跡もある。本堂は、永禄元(1558)年、長宗我部国親・元親親子によって再建された(国指定重要文化財)。西に中世土佐の覇者長宗我部元親の居城である岡豊城跡を望む。

 

【五台山 金色院 竹林寺(ごだいさん こんじきいん ちくりんじ)】

d2f08b55c0dbb654694c90f6efb9856f

第31 番札所。五台山 金色院 竹林寺。高知県を代表する名刹で、江戸時代前期に建立された「文殊堂」と呼ばれる本堂は国指定重要文化財、庭園は国指定名勝。行基が、中国の五台山に似た霊地として神亀元(724)年を開創、自作の本尊(文殊菩薩)を安置したのにはじまるという。

 

【善根宿(ぜんこんやど)】

88f5f36e088b55140f3c997357bed0eb

古くからお遍路さんを身近な存在として、温かく迎え入れ、見守り続けており、「お接待」と呼ばれる独特の援助を行っている。お遍路さんに食事や飲み物を振る舞い、ねぎらいの言葉をかけ、時には「善根宿」と呼ばれる無料の宿やお風呂を提供する。日本の歴史、文化、精神を伝承する生きた文化遺産である。

 

【休憩所】

c794fa0dc26347a8b367a99ef31160cf

お遍路道の近くには休憩所が点在する。疲れた身体を休めたり、喉を潤したりと非常にありがたい場所だ。また、偶然出会ったお遍路さんと話に花を咲かせることも楽しみのひとつである。

 

画像提供ならびに記事作成協力

■高知県地産外商公社

■高知県観光コンベンション協会

 

筑波に神々がいた証し? なぜその形になったか分からない不思議な岩の数々
<茨城県つくば市>

tukuba2_00a筑波山神社から山頂を目指す以外に、ロープウェイ乗り場近くから登山道も人気。その理由としては、車で高度が稼げるという部分もあるが、やはり途中にある数多くの奇岩を見て回れるというのも大きいのではないか。

tukuba2_01a
半分以上が石段になっている道を約1㎞歩くと、筑波山神社から女体山頂へ向かう道と合流。ここから山頂までの間に数多くの奇岩が次々とあらわれる。

tukuba2_02
まず最初は、二つの巨岩の間に絶妙なバランスで大きな石がかぶさり、門のような状態となっている「弁慶七戻り」。名前の由来は、弁慶がくぐるとき岩が落ちそうなので7回も躊躇したとの伝承による。登り時は反対側からなので、落ちそうには見えないのだが、通り抜けたあと振り向くと確かに肝が冷える。古くは石門といわれ、神々の住む高天原(たかまがはら)と俗世を分ける場所だったそうだ。長い年月をこの状態でいられるのは本当に不思議で、見ていると「本当に神秘的な力はあるのかも」と感じさせる。

tukuba2_03数十メートル進むと「高天原」。急な階段を上って岩の上に着くと、筑波山神社の摂社のひとつである稲村神社があり、天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られている。降りるときは社の裏の岩の隙間を通り、社を一周する感じになる。

tukuba2_05
せりだした巨岩の下に岩が挟まっている「母の胎内くぐり」もすぐ近く。ここは筑波山禅定(修験行)の行場のひとつといわれており、岩の間を抜けることは生まれた姿に立ち返ることを意味しているそう。話はそれるが、出羽三山の修験道にも生まれかわりを意味する修行があり、山岳信仰には共通する部分が多い。

tukuba2_06
実際にくぐってみると岩の隙間は予想以上に狭く、自然と赤ん坊のように這いつくばる姿勢になる。ほんのわずかな距離なのに圧迫感があり、抜け出たときは開放感を感じた。

tukuba2_07
二つの巨大な岩が寄り添うようにそびえ立つ「陰陽石(いんようせき)」は登りながらだとわかりづらいが、通り過ぎてから振り返るとその不思議さが分かる。寄り添うというよりくっついているといわれた方がしっくりくる絶妙のバランス。

tukuba2_08
ついつい隙間に挟まってしまう人が多いのが「出船入船(でふねいりふね)」。出てゆく船と入ってくる船が並んでいるように見えることから名付けられたそうだが、もとは「熊野の石鳥居」といい、航海安全を願う古い神「船玉神」を祀っているそうだ。なぜ内陸の山の尾根に航海安全を願う場所ができたか気になり調べてみると、筑波山西麓には古代の霞ヶ浦に続く海があり、貝塚や地名に名残りが残っているとのこと。もしかしたら、その当時から信仰の対象になっていたことの証しなのかもしれない。

tukuba2_09
決して動かないことを意味しているといわれる「北斗岩」は、尾根道を遮るようにそびえ立つ高い岩。かたわらには筑波山神社の摂社のひとつである小原木神社が立てられ月読尊(つくよみのみこと)が祀られている。

tukuba2_10

女体山の山頂近くまで登るとでてくる「大仏岩」は、角度によって本当に人が作った大仏のように見える。有名な奈良の大仏には1mほど及ばないものの高さは15mあり、山中にいきなりあらわれるので結構驚く。日本古来の神々のなかにしれっと大仏が混ざっているのも、なんだか日本的ではないだろうか。

風待ち港、遊郭、ペリー艦隊etc..歴史ロマンあふれる伊豆下田ペリーロードをあるく
〈静岡県下田市〉

伊豆急下田駅から歩いて10分ほどのペリーロードは、下田条約締結のために入港したペリー艦隊が行進した、下田港から了仙寺までの平滑川(ひらなめがわ)沿いの道。幕末から明治、大正時代にかけて造られた蔵や商家などが立ち並ぶ町並みは、下田らしい叙情あふれる風景として知られています。
IMG_0909r
この平滑川沿いの石畳の遊歩道を歩いて心地良いのは、おそらくその距離にも理由がありそうです。長すぎず短すぎずなほどよい長さは、疲れも少なく快適です。この赤い欄干の先に見えるなまこ壁の店は『SOULBAR 土佐屋』といい、江戸時代の回船問屋の古い建物を利用した店だそう。地元のみならず全国にもファンが多いと聞きます。
IMG_0707
もと遊廓だったというこの建物は、現在は、明治・大正時代のアンティーク家具&骨董品を集めた店と喫茶店を営業している『風待工房』。ペリー艦隊にはじまる開港以前の江戸時代の下田は、東西を往復する船の風待ち・避難の寄港地として栄えました。また当時、風待ち港には、遊郭がつきもの(?)だったとか。建物と店名からは江戸の奥深い歴史さえ想像させます。
IMG_1115s
ここペリーロードで『なまこ壁』と一緒に語られるもう1つのものは『伊豆石』造り。火事が多かった江戸時代には、耐火性の強い伊豆石は重宝され、蔵にも多く使われたといいます。手前の緑の窓枠が目印の店は『ページワン』というイタリアン・レストランですが、この店も伊豆石作りの古い洋館を利用しているそうです。
IMG_0692r
逢坂橋のたもとにある草画房(そうがぼう)は、映画やドラマにも登場しそうなノルタルジーあふれる古民家を利用したカフェ&ギャラリー。どの角度から眺めても絵になる美しい建物で、築100年になろうかという歴史を持つそうです。
IMG_1142r
了仙寺から下田港の方へ、ペリーロードを歩いていくと、突きあたりの右の民家が並ぶ一角に「温泉旅館 大川屋」の看板があります。入口をのぞくと、懐かしい昭和レトロな風情ただよう玄関先のしつらえが目に入りました。
IMG_0505_cat
さらに下田ペリーロード見物(?)に欠かせないのが『猫』たちです。『道を歩けば猫に当たる』くらいの高い確率で出会えるのも猫好きには嬉しいところ。考えてみればそりゃトーゼン、漁港に猫はつきもの(?)でしたっけ・・
IMG_0404
ペリーロードの終わりにある旧澤村邸は「伊豆石」を使った「なまこ壁」の民家(澤村氏より市に寄贈)で、大正時代の建築。黒い壁が目印です。市の歴史的建造物にも指定されており、ボランティアの方が親切に案内もしてくれます。疲れた時にはここの休憩室で少し休んでいく利用のしかたでも構わないそうなので、場所を覚えておくと休憩やトイレにも便利かもしれません。
DSC_0701
了仙寺からペリー艦隊が上陸したポイントへは、ペリーロードを道なりに進み、突きあたりの旧澤村邸から左にそれた道を進むと目のまえに海が見えてきます。視界が開けて目のまえに海が広がる一瞬は、爽快!
IMG_0879_s
ペリーの記念像をこの小散歩のゴールに設定すると、何やら達成感を感じるのは、気のせいでしょうか?いずれにせよ、逆のコース(ペリーからスタートして、了仙寺でゴール)よりもこちらの方が『盛り上がり感』があり、時間があれば、双方のベクトルで比べて試してみるのも面白いかもしれません。

 

写真:乃梨花

「四国遍路 香川県②」 ~結願成就し悟りに至る「涅槃の道場」~
<香川県善通寺市、綾歌郡>

■第75番札所 善通寺

c3f7b34bf900278d0127c129ae2aa601

「善通寺」は大師三大霊跡の一つでもあり、弘法大師誕生の地に立つお寺だ。東院、西院に分かれた境内は45,000㎡の広さを誇る。御影堂の近くにある宝物館や、地下に存在する100mの通路など、見どころが満載だ。

 

■善通寺 空海まつり

fa962914dc2f4f573829010519eb9732

11月3日は弘法大師の父君善通公の命日と伝えられており、弘法大師の座像を乗せた輿を中心とした市中練供養が行われる。境内は、彩色豊かなのぼりや五色の緞帳(どんちょう)で飾られ、のど自慢などイベントも開催される。

 

■第78番札所 郷照寺

9802d170e0e67d0fa6600c855aefc3b7

奈良時代、行基により開創された「郷照寺」。本堂は、金色の装飾が美しく施されている。二層になった屋根は奈良様式の造りで、霊場の中では珍しい。郷照寺は高台に建てられているため、瀬戸大橋を見ることができる。眺めの良いおすすめスポットだ。

 

■郷照寺 天井画

92d2410c3077322da6015b8c90fda11f

本堂、大師堂の天井画。主に草花がモチーフにされており、立体的なレリーフで彩られている。非常に色鮮やかで、ひとつひとつが凝った造りだ。技術の高さが感じられる。

 

■熊岡菓子店

o0123

出演:うどん県副知事/女優 木内晶子

木内晶子オフィシャルブログ http://akikokinouchi.com/

o0147

1896年(明治29年)創業の老舗「熊岡菓子店」で売られている「カタパン」は、その名の通り非常に硬いお菓子だ。その昔、軍用食として考案されたが、現在ではお遍路さんの保存食と呼ばれている。昔ながらの素朴な味が人気で、今でも量り売りされている。

 

■しっぽくうどん

1208dca13dd3d55bf99e43cf5cdd2d81

全国的な人気を誇る讃岐うどん。四国では讃岐うどんを筆頭に鳴門うどんも盛り上がりをみせている。このしっぽくうどんは、根菜を中心とした野菜、鶏肉、あげなどを煮込み、その煮込み汁をかけていただく定番の郷土料理である。これからの季節、お遍路で冷え切った身体には欠かせない一杯だ。

 

■旧善通寺偕行社

e88fc363ec347ea22e8ea6ad0dcde2c2

戦前、将校の学問研究や親睦を目的に設立された偕行社が、社交場として全国に建設したうちのひとつであり、戦後は進駐軍の社交場として活用された。現在は国の重要文化財でありながら、カフェが利用でき、様々なイベントが行われる貴重な施設だ。

 

■画像提供協力

(公社)香川県観光協会

冬枯れの浄土庭園・白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)で平安末期の夢さんぽ
<福島県いわき市>

国宝の白水阿弥陀堂(国宝指定名称:願成寺(がんじょうじ)阿弥陀堂)と堂を囲む浄土庭園を冬枯れの景色のなか、散策してみると、色鮮やかな春・夏・秋の風景とは、また違った侘び寂び色の風情が望めます。
IMG_1058r1
白水阿弥陀堂は、平安時代末期、いわき市一帯を治める豪族の岩城則道(いわきのりみち)の妻・徳姫が、亡き夫(則道)の菩提を弔うために建立されたと伝わる阿弥陀堂で、福島県で唯一の国宝建造物に指定されています。
IMG_1014_r
徳姫は、奥州藤原氏の祖・藤原清衡の娘で、父親と同様に仏教に篤く帰依し、則道が死去すると剃髪して徳尼御前(とくにごぜん)と名乗ります。則道の冥福を祈るために建てたこの阿弥陀堂も、おそらくは、父・清衡の強い影響の下で、建てたものと考えられます。背景的には、当時の貴族や僧侶らの間に広まった末法思想による浄土信仰の世界観の表れといえそうです。
IMG_0989_r
浄土式庭園とは、死んだあとの夢のような世界(極楽浄土)をこの世に再現した庭園。金堂や仏堂をはじめとした寺院建築物と園池を一体として築造した仏寺の庭園様式が特徴です。“浄土を再現したような”美しい流麗な庭園はもちろんのこと、極楽浄土へ衆生を導いてくれる阿弥陀仏を本尊に、悟りを得るための行をおさめる空間でもあります。
IMG_1005r
浄土式庭園では、阿弥陀堂のある中ノ島は神域で、池(水)は『あの世』と『この世』を分ける「三途の川」の役割です。であれば、境界にかかるこの橋は、さながら『あの世』と『この世』をつなぐ橋。これは、ぼ〜っとしたまま、うかうか渡れません。
IMG_0979r
中尊寺金色堂を模して建てられたと伝わる阿弥陀堂の内部は、側面の板壁内面、母屋の柱、天井などに仏像や装飾文様が描かれ、建立時にはきらびやかだったとされています。それから、800年以上の時を経て、風雪にもさらされ、おおかたは剥落してしまいました。
IMG_1001_r
堂内は、中央に本尊の阿弥陀如来像を安置し、両脇には観世音菩薩像、勢至菩薩像、そして二天像(持国天像と多聞天像)が本尊を守るように左右外側の手前に配されています。(仏像5体は重要文化財。残念ながら堂内は撮影不可。)阿弥陀如来と両脇侍菩薩像(観世音と勢至)は、平安時代末期に確立された日本独自の仏像技法『寄木造り』による木彫りです。
IMG_0965r
正面から見ると、方形のつくりが中尊寺金色堂と共通です。調べてみると、平安時代の阿弥陀堂で『現存』するのは、国内に計7つ。そのうち、中尊寺金色堂と、ここ願成寺阿弥陀堂を含めた計5つの阿弥陀堂が、正方形型です。しかもその5つの阿弥陀堂のうちの3つが、みちのくにあり、平泉と関係が深いといわれています。
IMG_1024
この地『白水』も、平泉の泉の字を上下に分け、つけられた地名です。
IMG_1031
浄土式庭園の池の外側(参道以外の)三方は、山で囲まれています。これらも『極楽浄土の風景』を構成する大切な自然遺産です。
IMG_0202r
池に集まる水辺の鳥たちも、いわきの美しい自然の景観のなかで、都会の水辺の鳥たちよりも、はるかに伸びやかに見えました。

 

写真:乃梨花

3000年続く古社が21世紀の神社を導く!?
「デジタル〇〇〇〇〇」まで導入するグローバル対応
<茨城県つくば市>

tukuba_a01

関東平野の東方に位置し都内からでも特徴的な二つの峰を望むことができる筑波山は、その二峰が並ぶ様子から自然に男女2柱の神「伊弉諾神(いざなぎのかみ)」「伊弉冊尊(いざなみのかみ)」が祀られたそう。そんな筑波山を御神体と仰ぐ筑波山神社は、一帯に人が住むようになった約3000年前から続いていると伝わる古社なのである。

tukuba_a02

夫婦である男女2柱のご神体を主神をして祀られていることから、縁結び・夫婦円満にご利益があるといわれ、シンボルとなっている直径約1mほどの大鈴には、ハートの形をした穴がつながる形で切れ込みが入っている。

tukuba_a04

筑波山神社の境内は「筑波山南面を主に海抜270mの線以上370町歩」とされ、筑波山のかなりの部分が含まれる。広大な敷地内には多数の神社と神々が鎮座しているためか、社務所では様々なお守りやおふだ、絵馬・破魔矢などが売られていた。

tukuba_a05
境内社は山中に存在する場合も多いためか、9つの神社の御朱印を受け付けていた。御朱印は見本がきちんとディスプレイされていて分かりやすい。ちなみに、どの神社もご参拝してから御朱印をいただくのが正しいスタイル。

tukuba_a07
おみくじも祈願にあわせた数種類がラインナップ。目を引いたのは「五ケ国語みくじ」で、おみくじの内容が日本語・英語・韓国語と二種類の中国語で表記されているとのこと。ひとつひかせて頂いたところ、日本語のおみくじが他国語で表現されているのが面白く、通常のモノより長い時間読めてしまう。外国の方だけでなく、日本人でも一度はひいてみるのがオススメ。ちなみに「おみくじ」は、英語だと「A Written Oracle」中国語では「運氣」としるされていた。

tukuba_a09
そして、神社としてはかなり斬新…というか初めて境内で見ましたデジタルサイネージ(電子広告)。二つある画面は左が日本語・右が英語で、筑波山神社の行事や結婚式・ご祈祷の告知が流されていた。現在は違和感を感じるが、訪日外国人やこれからの日本人にとっては、当たり前の景色になっていくのではないかとも思う。 伝統を守りつつも時代に合わせた変化をいち早く取りいれているのが、3000年も在りつづけられる秘訣の一つなのかもしれない。

源頼朝も立ち寄った!伝説と歴史に縁取られた岩屋跡。〜達谷窟毘沙門堂
〈岩手県西磐井郡〉

達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)は、桓武天皇より征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が801年に壁下方の岩屋に建てた堂がはじまりだ。108体の毘沙門天を祀り、京都の清水寺の舞台を模して九間四面の精舎を建立したと伝えられる。伝説では、田村麻呂が蝦夷の首長『悪路王』を討伐した場所だ。
dsc_0508_1a
荒々しく切り立った崖を背にダイナミックな臨場感を漂わせ、迫力ある美しさで見るものを圧倒する毘沙門堂。だがその成り立ちを見るとき、伝説とは逆で、朝廷による蝦夷“迫害”が真実なのではないか?とさえ思う。歴史の他の例にもれず、敗者(蝦夷の長)を悪(悪路王)とし、勝者にあたかも理(正義または大義)があるかのように、見せる必要が(支配側には)あるためだ。
dsc_0443iwaya
弐の鳥居。壱の鳥居をくぐり(すぐ脇に拝観料を納める案内所がある)、つぎにこの鳥居をくぐって、奥に見える参の鳥居をくぐり抜けた先に毘沙門堂がある。
dsc_0449_1r
姫待不動堂。“伝説”では、悪路王が京からさらってきた姫君たちを閉じ込めたとされるが、おそらくはこれも朝廷側にとって都合のよい蝦夷に対するネガキャンの一環と疑う。野蛮で残忍な種族(鬼を連想させる)ということにしておけば、民は征伐(殺戮による侵略)に躊躇しないからだ。それはさておき、こちらのご本尊は、桂材の一木彫で全国でも希なる大師様不動(だいしようふどう)の大像。製作年代は平安後期のものとされる。
dsc_0463_1
この姫待不動堂は、もとは達谷西光寺(たっこくせいこうじ)の飛地境内にある姫待瀧(ひめまちだき)にあったもので、平安時代後期に奥州藤原氏2代目当主である基衡(もとひら)により再建された。それより600年あまりを経た寛政元年(1789年)に、堂宇の腐朽により、この地に移されたそうだ。(ちなみに姫待瀧と鬘石は、ここから遠くない今でも同じ場所にある。)
dsc_0489_1r
明治初年に廃仏棄釈でいったん破棄された金堂は、古くは講堂とも呼ばれていた。延暦二十一年(802年)に達谷川対岸の谷地田に建てられたものは、延徳二年(1490年)の大火で焼失し、江戸時代には現在の場所に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていた。現在のものは、平成七年に完成してまだ新しい。本尊は眞鏡山上の神木の松で刻まれた四尺の薬師如来。
dsc_0514_1_r
蝦蟇ヶ池辯天堂(がまがいけべんてんどう)は、蝦蟇ヶ池の中島にある。境内からは、平安末期のかわらけ(素焼き土器・皿)が数多く発掘されており、池の石積み護岸工事跡も発見されている。堂内に祀られた弁財天は、慈覚大師の作と伝えられており、過去の大火にも焼失を免れた。
dsc_0631_1
蟇ヶ池辯天堂を上から睨むかたちで、鎮座している達谷窟毘沙門堂。
dsc_0526_r
創建以来、たびたびの焼失を繰り返してきた毘沙門堂。現在の堂は五代目となる。文治5年(1189年)には、源頼朝が奥州合戦の帰路、鎌倉に戻る途中に参詣したことが『吾妻鏡』に記されている(『吾妻鏡』では達谷窟はまだ「田谷の窟」である)。ご本尊には、慈覚大師の作と伝わる吉祥天と善膩子童士を秘仏として奉安している。
dsc_0586_r
だまし絵のようで見分けにくいが、写真の左上あたりに見えるのが岩面大仏。この岩に彫られた北限の磨崖仏は、前九年・後三年の役で亡くなった敵味方の霊を供養するために、源義家が馬上より弓弭(ゆはず)で彫った、との言い伝えがある。明治29年には胸から下が風化により崩落してしまった。
dsc_0680_1r
帰りは、壱の鳥居から『御神域(境内)』の外へ。いまも静かな里山の風景のなか、蝦夷たちの思いが、いまでも漂っているようだった。

 

写真:乃梨花