北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み〜近代医学発祥の地!佐倉順天堂記念館
〈千葉県佐倉市③〉

IMG_7626r
「順天堂」は天保14年(1843)に蘭医・佐藤泰然が、創設した蘭方医学塾兼外科の診療所。現在の建物は安政5年(1858)に建てられた。移築後、修復整備され、昭和60年(1985)からは記念館として一般公開されている。
IMG_7563r
佐藤泰然が江戸からこの佐倉に移住し順天堂を創設したのは、天保14年(1843)。その背景には、当時の佐倉藩主の堀田正睦(ほったまさよし)による、徹底した学問・武術の奨励による「天保の改革」の推進がある。正睦は「西洋堀田」と呼ばれるほど西洋びいきで有名な江戸後期の幕閣の一人。そんな正睦が藩に西洋医学を取り入れようとして招いたのが、長崎でオランダ医学を学んだ佐藤泰然だった。
IMG_7562rr
泰然がはじめた順天堂の蘭方医学塾には、全国から医学生が集まり「西の長崎、東の佐倉」とまで呼ばれるようになった。これはつまり当時の蘭学の先進地を示しており、その後も泰然の後を継いだ尚中の時代に、当時大阪にあった緒方洪庵の「適塾」と並んで蘭学の名門と謳われた。
IMG_7620_r
玄関から入ってすぐの正面には「順天堂」の堂号が掲げられている。書いたのは、小葭外史(姫路藩医の山田安朴)で、順天は「天道にしたがう」の意。
IMG_7578r
部屋には、江戸後期に順天堂でじっさいに使用されていた手術道具も陳列されている。これら手術器具は順天堂がモデルとなった人気のタイムスリップ医学ドラマ『JIN』でも参考にされたようだ。さすが江戸時代に使われていたものだけあって、今の最新医療器具とは違い、見ただけで怖気をふるって逃げ出したくなるようなものばかりだ。
IMG_7580r
同じく館内では、この療治定と書かれた料金表が面白い。安政元年に順天堂で定めた治療の価格表(全39種の外科手術)なのだが、現代なら産婦人科や耳鼻科ごとに分かれている診療科目が一堂に並記されているので、おそらく“専門医”という区分がまだない時代の名残とも言える。
IMG_7571r
順天堂の創始者である佐藤泰然のあとを継いだのは、佐藤尚中(たかなか)で、元の名を山口舜海という。順天堂の門人の中でも優れていたため、佐藤家の養子となり泰然の後継者となった。泰然には子が多いが、あえて実子を後継者とすることにこだわらず、医者として有能な人物を選ぶ進歩的選択は、代々受け継がれていく。結果として順天堂の発展にもつながったといわれている。
IMG_7574
この建物は、最初は成田街道を挟んだ向かいの位置にあり、館内に展示されている当時の模型からも、敷地と施設の規模は今よりもずっと大きかった。現在残されている建物は外観は和風建築だが、奥は洋風で、改築の際に和室から洋室へと変更された。このような和洋折衷は、幕末から明治期にかけて、多く見られた。
IMG_7611_r
国内で、当時としては最高水準の外科治療を施していた順天堂。旧佐倉藩のお膝元で、日本の医学界における多くのリーダーを輩出し、日本の西洋医学の礎ともなった学徒たちの「学び舎」もまた、佐倉藩における武家屋敷などの例にもれず、倹約を感じさせる佇まいだった。

 

写真:乃梨花

「四国遍路 香川県①」 ~結願成就し悟りに至る「涅槃の道場」~
<徳島県三好市、香川県三豊市、善通寺市>

368bb3805aeae64c4d3bf8ea4d98601c

お遍路には、様々な巡礼の方法がある。一番札所徳島県霊山寺から巡る「順打ち」、最終札所香川県大窪寺から逆に巡る「逆打ち」。人それぞれの巡り方が存在しており、特に規則は存在しない。ここ香川県は「順打ち」の最終地点であり、八十八ヶ所の巡礼はこの地にて結願する。

 

■第66番札所 雲辺寺

e86fc75204c0edd57f71dab6c7892b0e

「涅槃の道場」香川のお遍路は、徳島県との県境にある雲辺寺より始まる。このお寺は八十八ヶ所の中で一番高いところに位置し「四国高野」と呼ばれている。お遍路泣かせの難所であるが、現在ではロープウェイで山頂へ行くことができる。

 

■雲辺寺 五百羅漢像

62d310e226f34426e4f93d51a81d5fc8

500体の像が様々な表情を浮かべ、行き交うお遍路たちを見守る「五百羅漢像」。全国に点在し、四国では徳島県の地蔵寺にも存在する。この像の特徴は、全て表情が違うこと。雲辺寺の像は、かつて弘法大師が入唐した際、福建省赤岸鎮で見た五百羅漢像を模して作成されたと伝わる。

 

■第70番札所 本山寺

4dd3d4715bb4193a61d3d90c88b01450

「一夜建立」と知られている本山寺は、弘法大師が一夜にして建てたと言われている。四国八十八ヶ所霊場で、馬頭観音を本尊としている唯一の寺である。国宝である本堂は鎌倉時代に建立され、折衷様式の傑作とされている。戦国時代の兵火を逃れた数少ないお寺だ。

 

■本山寺 大師堂

f0838a4d526ddb222c723defd518a0f4

1795年(寛政7年 ) に建立された大師堂。国の登録有形文化財に指定されている。

 

■第73番札所 出釈迦寺

756d3f4d4fd9263f4906fc5c66950199

弘法大師は7歳の時のある日、救世の大誓願を立て我拝師山頂上に登り身を投げた。すると釈迦如来と天女が現れ、落ちていく大師を抱きとめ「一生成仏」の旨を告げた。感動した弘法大師は、後に釈迦如来を刻み本尊とし出釈迦寺を建てた。

 

■出釈迦寺 捨身ヶ嶽禅定(しゃしんがたけぜんじょう)

202195c7b1393e9ce2ef9a9ed7a14d08

元は札所であり、現在は奥の院となっている「捨身ヶ嶽禅定」は境内から歩いて約40分のところにある。体力的に登ることが困難な人は、本堂の近くにある「奥之院遥拝所」を参拝しよう。ここで念仏を唱えると、捨身ヶ嶽禅定に登ったのと同じ利益が得られると言われている。

 

■写真提供/(公社)香川県観光協会

 

 

自然と信仰が息づく『生まれかわりの旅』
~樹齢300年を超える杉並木につつまれた2,446段の石段から始まる出羽三山~
<山形県(鶴岡市、西川町、庄内町)>

00%e6%9c%88%e5%b1%b1
約1,400年前、衆生の病や苦悩を能く除かれた「蜂子皇子(はちこのおうじ)」によって開かれたといわれる出羽三山。三山とは羽黒山(はぐろさん)・月山(がっさん)・湯殿山(ゆどのさん)の総称で、羽黒派古修験道(はぐろはこしゅげんどう)の聖地として、開山から現在に至るまで多くの人々の信仰を集め続けている。

%e7%be%bd%e9%bb%92%e5%b1%b1%e3%81%ae%e7%9f%b3%e6%ae%b5%e3%81%a8%e6%9d%89%e4%b8%a6%e6%9c%a8
修験道とは自然崇拝を根幹とする日本独特の信仰であり、羽黒修験道ではそれぞれの山の特徴から、羽黒山を「現在の幸せを祈る山(現世)」、月山を「死後の安楽と往生を祈る山(前世)」、湯殿山を「生まれかわりを祈る山(来世)」と捉え、この三山を巡る行程を自己の生命の若返りの修行とし「三関三渡の行(さんかんさんどのぎょう)」と呼んだ。

n26-%e6%89%8b%e5%90%91%e3%81%ae%e5%ae%bf%e5%9d%8a%e8%a1%97n
この三関三渡の行が江戸時代に庶民の間で「生まれかわりの旅」として広がり、羽黒山麓では300を越える宿坊が参拝客を迎えたという。地域に暮らす人々は参拝者の旅の支度を整えもてなすことを生業とし、その営みは数百年の時を越えて今なお息づいている。

 

それは、いまなお三山を訪れる旅人が多いことのあらわれであり、自然の中に体を置き霊気と畏怖を感じられるこの旅が、人々の心のどこかをひきつけるからにほかならない。心身を潤し明日への活力を得られる「生まれかわりの旅」は、時を越えて人々に再生の力を与え続けているのだ。

 

 

羽黒山の随神門(ずいしんもん)

03-%e7%be%bd%e9%bb%92%e5%b1%b1%e3%81%ae%e9%9a%8f%e7%a5%9e%e9%96%80

随神門とは「邪悪なモノの侵入を防ぐ神」が祀られた門のことで、羽黒山の随神門には、豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)という門番の神が剣と弓矢をもって鎮座している。この門をくぐると「現在の世を表す山」といわれるご神域の羽黒山に入り、三山を巡る『生まれかわりの旅』が始まる。

 

羽黒山の石段

04-%e7%be%bd%e9%bb%92%e5%b1%b1%e3%81%ae%e7%9f%b3%e6%ae%b5n

随神門から羽黒山頂までの参道は、日本屈指の段数を誇る2,446段の石段で繋がれている。石段の両サイドに続く樹齢300~500年の古木が織りなす杉並木は、ミシュラン・グリーンガイドで最高評価の三つ星を獲得。木々が生み出す清々しい空気と静寂に包まれて進むと身も心も洗われ、深く自分を見つめ直すことができる。

 

羽黒山五重塔(国宝)

07-%e5%9b%bd%e5%ae%9d_%e7%be%bd%e9%bb%92%e5%b1%b1%e4%ba%94%e9%87%8d%e5%a1%94

平将門により承平年間(931~38年)に創建されたと伝えられ、東北地方では最古の塔といわれている「羽黒山五重塔」〈こちらもミシュラン・グリーンガイドに掲載(二つ星)〉。現在の塔は1372(応永5)年頃に建立されたと言われ、屋根は日本古来の杮葺(こけらぶき)で三間五層の色彩を施さない素木造り(しらきつくり)という伝統的な手法で構築。昭和41年に国宝に指定された。塔の近くには樹齢1000年以上ともいわれる古木「羽黒山の爺スギ」もそびえ立っており、参拝者が足をとめる名所となっている。

 

月山(国天然記念物)

o11-%e6%9c%88%e5%b1%b1%e9%81%a0%e6%99%af

月山は世界でも珍しい半円形のアスピーデ型火山で、その秀麗な姿から太古の昔より「祖霊が鎮まる山」として信仰を集め、羽黒修験道では月山を「過去の世を表す山」としている。山域の大部分は磐梯朝日国立公園の特別区域に指定され、希少な高山植物などの美しい自然も見どころ。山頂からは庄内平野や東北の山々などの絶景を眺めることができる。また、4月から夏ごろにかけて(冬季は休業)はスキー場としての一面も。

 

月山神社

o12-%e6%9c%88%e5%b1%b1%e7%a5%9e%e7%a4%be

「祖霊が鎮まる山」として信仰される月山(1,984m)の山頂にある「月山神社」。927(延長5)年に完成したといわれる延喜式神名帳に名前が載る由緒ある神社であり、夜(死後の世界)を司る月読命(つくよみのみこと)を祀っている。ご参拝ができるのは開山期間(7月1日~9月15日)のみ。

 

湯殿山

o13-%e6%b9%af%e6%ae%bf%e5%b1%b1%ef%bc%88%e6%bb%9d%e8%a1%8c%e3%82%92%e8%a1%8c%e3%81%86%e5%be%a1%e6%bb%9d%ef%bc%89ご神体であるお湯の湧き出る赤色の巨岩から、全てのものを産み出す大山祗命(おおやまつみのみこと)が祭神として祀られ、「未来の世を表す山」と言われる湯殿山。修験道では、滝行などの厳しい修行が行われる場であるが、強い生命力を感じさせる自然のエネルギーは、訪れた者の素肌を通して伝わり明日への新たな活力を与えてくれる。

 

旧遠藤家住宅

o15-%e6%97%a7%e9%81%a0%e8%97%a4%e5%ae%b6%e4%bd%8f%e5%ae%85

1200年前には開かれていたと伝わる「古道六十里越街道」。江戸時代に湯殿山信仰が盛んになると「ゆどのみち」とも呼ばれ、その要所にある田麦俣地区は、湯殿山への参拝者のための宿場的性格を帯び、雪深いこの地域の特性から多層構造で居住空間を広くした茅葺きの建築様式が発展した。江戸時代後期に建てられたものと推定される旧遠藤家住宅は、明治期に改装された兜造りの状態で復元されており、階層ごとに役割が異なったと考えられている内部も含めて見学が可能。

 

出羽三山の精進料理

o30-%e5%87%ba%e7%be%bd%e4%b8%89%e5%b1%b1%e3%81%ae%e7%b2%be%e9%80%b2%e6%96%99%e7%90%86

出羽の奥深い山中で生活するために「生きるための食」として山伏が創作したという精進料理は、山で採れた食材が様々な知恵と手間をかけて保存・調理されており、豊かな自然を味わうことができる。羽黒修験道の精神とともに継承された「出羽三山の精進料理」は、食べることも修行のひとつ。この地域に足を運んだ際はぜひ味わっておくべき。

 

画像提供:山形県教育庁文化財・生涯学習課

問屋街「かっぱ橋」に新たな魅力を発見!
〈東京都台東区〉

かっぱ橋と言えば、プロ仕様から個人使用まで飲食関連の道具・資材がなんでも揃う、日本一の問屋商店街でよく知られた場所です。
img_7004r
そんなかっぱ橋にやってきたのは、ここかっぱ橋にも新旧がいり混じった町の魅力を感じるから。まずは商店街入り口にある「ジャンボコック」ことニイミ洋食器店の看板男ニイミおじさんに軽く目でごあいさつしてからスタート。
img_7008r
道路をはさんだ向かい側にも遊園地の乗り物みたいなカラフルなコーヒーカップのビルがあり、こちらも同じくニイミ洋食器店のもの。
img_7812
そんなかっぱ橋では、近頃は作家が創作した美しい「うつわ」も手に入るようになりました。
img_7813
ここかっぱ橋にある陶器のギャラリー「とべとべくさ」は、商店街の角を曲がってすぐのところにある店で、購入する・しないに関わらず、気の済むまでゆっくり器が鑑賞できる「焼き物好き」にはうれしい店です。
img_7765r
かっぱ橋のカフェと言えば、最初にまず名前があがるのがココ「合羽橋珈琲」。古い民家をリノベして2004年にスタートしたこの店は、カフェ好きを惹きつけてやまないその魅力で、かっぱ橋に新しい流れを作り、けん引してきました。
img_7757r
そんな合羽橋珈琲も12年目の昨秋(2016)ついにモデルチェンジ。カフェは「KAPPABASHI COFFEE & BAR」となり夜はBARに。さらに以前は2Fだった「soi」が1Fに移ってきたので、作家の手づくりの器をはじめ、和の生活雑貨などが気軽に立ち寄って見られます。
img_7770r
合羽橋珈琲のちょっと先には2012年OPENのスタイリッシュなカフェ「Bridge」も。
img_7788r
店内に足を踏み入れると、かっぱ橋とは思えない、ニューヨーカーが御用達?な雰囲気のおしゃれ空間が上へ奥へと拡がります。それもそのはず、建築とアートとコーヒーをテーマに建築デザイン事務所SturdyStyleにより設計されたもの。何より設計者たちの本気(!)を感じさせる空間です。

img_7795r
商店街にふたたび戻れば、すぐ先には昭和レトロなビルが通りの同じ並びに立ち現れます。この新旧のコントラストも、この商店街の新しい魅力につながりそうです。
img_7755r
かっぱ橋の近くには巨大な敷地を占める東本願寺(写真は裏門)が。震災と戦火で焼失しながらも、その都度、再建を繰り返してきた本堂は威風堂々として強い存在感を放ちます。まだ改名前の浅草本願寺だった頃には、のちに上野戦争で敗走する運命となる彰義隊が結成されてここを拠点としたことでも知られます。

 

写真:乃梨花

会津の三十三観音めぐり〜巡礼を通して観た往時の会津の文化
〈福島県(会津若松市・下郷町・磐梯町・会津美里町ほか全17町村)〉

■会津さざえ堂(会津若松市)
奇妙奇天烈、摩訶不思議。そんな言葉がぴったりの「会津さざえ堂」は、ひと目見たら忘れられない強烈なインパクトの建物だ。江戸時代後期、関東から東北にかけて作られた「さざえ堂」の中でも、ここは画期的!理由はその「二重らせん」の構造にある。入口から斜路を最上部まで上ると、太鼓橋をまたいで、往きとは別の斜路を降りて出口から出る。この狭い塔の中で往路と帰路が完全に分かれているのは驚きだが、そのからくりがまさに「二重らせん」にあるのだ。
dsc_0415_r
これら「さざえ堂」は、江戸時代の中期に国中で巡礼が大ブームとなり、なかなか巡礼(の旅)に出られない庶民のための『簡易巡礼施設』として考案されたらしい。江戸・本所にもあった「さざえ堂」の1つ羅漢寺観音堂(現在は焼失)は、ここ会津よりも古いものだった。
dsc_0388r
この会津さざえ堂では、明治の廃仏棄釈まで関西地方の三十三番札所の観音様が一体ずつ祀られており、お堂の内部を巡るだけで三十三観音巡りが出来るしくみだった。つまり上って下りてくるだけで西国の三十三ヶ所を巡礼する代わりになったのだから、なによりたいへん安上がりで庶民の家計にも優しいしくみだったのだ。
dsc_0429r
入り口の唐破風の向拝に見られる龍の彫刻。江戸時代になってから向拝の彫刻に龍などが多く見られるようになったという。
dsc_0438r
向拝をくぐると、観音様の恵みが海のように広大である、の意の「福聚海」の額が掲げられ、柱には正式名「円通三匝堂(えんつうさんほうどう)」の札が見える。ちなみに〈匝〉は巡るという意味を持つ字で、三匝は三回廻るの意味。ここでは上り下りを各1周半(じっさいは一周と四分の三)ずつ、堂内を計3周廻るため、三匝である。
dsc_0452_r
建物の中に足を踏み入れると拝観者を出迎えるのは、この建物を設計した郁堂(いくどう)禅師の像だ。寺に伝わるところによれば、二重のこよりをよった形からこの二重螺旋の堂の構造を思いついたという。ただし二重螺旋じたいは当時すでにオランダ船によって輸入されていた洋書に図画が載っていたため、過去にどこかで目にした可能性も考えられる。
img_0026r
内部は、独特な傾斜をもつスロープになっている。うねるような床である。体が自然に上へと導かれるような不思議な感覚をおぼえる。あるいは、さざえ堂という木造を装った(?)生き物内部の消化器官に絡めとられてしまったのかもしれない。一方で宗教的な儀礼の気配も宿している。ふと気づくと、空間がいつしか心に作用し、内なる旅をしていることに気づく。二重螺旋と匝の神秘のなせる業なのだろうか。
dsc_0487r
最上部の六角形の折り上げ天井には、千社札が所狭しと貼られている。折り返し地点にかかる「太鼓橋」は何かの象徴のようだ。ひょっとしたら、この世とあの世をつなぐ橋だったのかな・・・

 

■左下り観音(会津美里町)
0043800114rei
会津三十三観音堂の21番目の札所、左下観音堂(さくだりかんのんどう)は、天長7年(830)僧徳により建立された。山の中腹の岩をうがって構築した見事な三層閣の構造で、京都の清水寺ともよく似ている。(平成26年に県重要文化財に指定。)

 

■大内宿(下郷町)
10_mg_7706
大内宿は江戸時代に会津城下と下野の国を結ぶ下野街道(しもつけかいどう)の宿場町としてにぎわった。当時この街道は会津藩主の18回にも及ぶ江戸への参勤と江戸廻米の輸送にも使われた重要路だった。

 

■慧日寺(磐梯町)
06_dsc8209tri
慧日寺(えにちじ)は、平安時代の初期に南都で法相教学を学んだ後に都を離れ、理想の修行の地を求めてはるか東国へと錫を振った稀代の学僧「徳一」よって開かれた寺院。創建以来、栄枯盛衰を繰り返しながらも大きく繁栄し、ながらく会津仏教文化の中心的役割を担ってきた。廃仏毀釈により明治の初めに廃寺となったが、昭和45年に寺跡が国の史跡に指定されて以来、金堂につづき中門が復元されるなど、創建期の姿を徐々に蘇らせている。

 

写真:乃梨花、(さざえ堂以外)ふくしまの旅 観光フォトライブラリより

北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み〜成田山新勝寺
〈千葉県成田市①〉

江戸時代から「成田山のお不動さま」の愛称で親しまれ、人々の信仰を集める成田山新勝寺は、940年に『平将門の乱』平定祈願のために開山された真言宗智山派の大本山。家内安全、交通安全などを祈る護摩祈祷は人気が高く、全国から多くの参詣者を集めます。
img_9194
お正月には身動きが取れないほど人でいっぱいの境内ですが、ふだんはこの通り。のんびり広々としています。初詣の参詣風景などでも、よく知られるこの大本堂は、弘法大師・空海によって敬刻開眼された(※公称)不動明王を御本尊とした御護摩祈祷を行う道場です。
img_9127_somon
開基1070年の記念事業として、あたらしく建てられた総門は、総ケヤキ造りで高さ15mの威容を誇ります。平成19年に落慶され、以後、成田山新勝寺の表玄関に。蟇股(かえる股)には十二支の木の彫刻があり、楼上には八体の生まれ歳守り本尊が奉安されています。
img_9145r
仁王門(国指定重要文化財)は天保2年(1831)に再建。左右を密迹(みっしゃく)、那羅延(ならえん)の金剛が守り、裏仏には右に広目天、左に多聞天を奉安して、仏を安置する伽藍を境内の入り口で守護しています。
img_9161r
平成19年に、古文書をもとに漆塗り彩色の修復がされた三重塔(国指定重要文化財)は、とってもきらびやか。塔の各層に見られる雲水紋の彫刻の垂木は、一枚板で作られており、ひじょうに珍しいものだそう。正徳2年(1712)建立で、塔内には五智如来が奉安されています。
img_9210r
安政5年(1858)に3代目の本堂として建立された釈迦堂(国指定重要文化財)は、釈迦如来とともに文殊、普賢、千手観世音、弥勒の四菩薩を奉安しています。堂の周囲には五百羅漢や二十四孝の彫刻がはめこまれ、ぜひじっくり時間をかけてめぐりたいもの。総ケヤキ造りの見事な伽藍は、江戸時代後期の特色をよく残しているといいます。
img_9227
1861(文久元)年に建立された額堂(国指定重要文化財)は、ご信徒から奉納された額や絵馬などをかける建物。ここ成田山とはとっても縁の深い「成田屋」の屋号で知られる、歌舞伎役者の市川團十郎(七代目)から寄進された石像も見られます。
img_9246r
1701(元禄14)年に建立された光明堂(国指定重要文化財)は、釈迦堂よりもうひとつ前に本堂だったところ。本尊は大日如来で、不動明王、愛染明王(縁結び祈願)が奉安されています。成田山で恋愛成就(縁結び)をお願いするなら、迷わずここです。
img_9257r
光明堂の伽藍を下から見上げれば、建物の経てきた歴史の重みがずしりと感じられます。全体に建立当初の構造がよく残されており、江戸時代中期の密教寺院の建物として貴重なものといいます。
img_9290r
光明堂の周囲を覆う古い額など。額堂と同じく、ほとんどが信徒から奉納されたものだそう。長い年月を経てきた古刹は細部まで味わい深く、長く見ていても飽きない風趣があります。

(②へつづく)

 

写真:乃梨花

「四国遍路 徳島県②」~回遊型巡礼路と独自の巡礼文化~
<徳島県鳴門市、阿波市、吉野川市>

■お接待

db9d5ded2b908a65512f1c368d3eb45a

四国遍路には「お接待」という独特の風習がある。お遍路さんに食事を振る舞い、労いの言葉をかける。時には「善根宿(ぜんこんやど)」と呼ばれる無料の宿やお風呂を提供する。この温かい風習に励まされ、再び遍路を続けていく。

 

■第2番札所 極楽寺

c9d2c5f1207d73c97d78cbe3a563e39c

美しい朱塗りの仁王門が迎えてくれる極楽寺。思わずテンションが上がってしまう。仁王門を潜り抜け、44段の石段を上りきると本堂が姿をあらわす。本堂へ向かう途中には、美しく整備された庭園があり、そこでは多くの人々が足をとめていた。

 

■極楽寺 長命杉

2f961747acd52886b645501dcde096a3

迫力のある「長命杉」は鳴門市の天然記念物に指定されている。高さが30メートルを超える巨大な霊木は、弘法大師が自ら植えたという。この霊木に触れると、長生きできると伝わっている。

 

■第10番札所 切幡寺

de04870c6e5fef06a193a7cf17862d9c

平安時代に開創されたと伝わる「切幡寺」は切幡山の中腹に位置する。境内までは、333段の石段と坂を克服しなければならないが、そこには切幡寺ならではの絶景がひろがっている。お遍路泣かせではあるが、達成感を味わってほしい。

 

■切幡寺大塔

56509b52e1ab62006ba21a34f33e89d1

国の重要文化財に指定されている切幡寺の大塔。1618年(元和4年)に徳川秀忠が大阪の住吉 神宮寺に寄進したが、廃寺となったため、ここに移築された。初層も二層も方形という形式であり現存する二重塔では、日本唯一の構造である。

 

■第11番札所 藤井寺

c2fad654350a97d700dff875747a803e

三方を山に囲まれ、静かな佇まいを見せる藤井寺。弘法大師は山中の八畳岩に金剛不壊といわれる護摩壇を築き、一七日間の修行を行ったと伝わる。本尊の薬師如来は藤原期の名作で、国の重要文化財に指定されている。

 

■藤井寺 藤棚

境内に入ると立派な藤棚が迎えてくれる。寺名の由来となっている藤は、弘法大師のお手植えと言われている。藤棚の見頃は、4月下旬~5月上旬。ぜひ訪れたい癒し系スポットだ。

 

画像提供協力

■阿波ナビ

■四国遍路日本遺産協議会

 

 

 

 

武田と上杉もここで戦った?江戸・甲州街道きっての名勝!そして日本三奇矯の「猿橋」
〈山梨県大月市①〉

日本三奇矯の一つとして知られる「猿橋」。山梨県大月市の桂川に架かるこの橋一帯は、江戸の頃から景勝地としても知られ、昔から多くの旅人が訪れています。
img_0175r
猿橋がいつごろ造られたのか?は、はっきりしませんが、『旧事大成経』には、推古天皇の頃(西暦612年)百済から志羅呼(シラコ)という人が来て橋の築造を頼まれ、猿が藤蔓をよじ登り伝って向こう岸に渡った、のを見て架橋の着想を得たという話が残されています。橋脚をもたずに高い峡谷の両岸から「肘(ひじ)木けた式」と呼ばれる特殊な構造で支えられている珍しい橋です。
img_0169r
「猿橋」が出てくる文献では、今から約500年前の文明十九年(1486)、聖護院の門跡道興の旅日記『廻国雑記』に、猿橋を表した詩文が記されています。また、応永三十三年(1426)には武田信長と足利持氏が、大永四年(1524)には武田信虎と上杉憲房が、ここ猿橋を合戦の場としたといいます。
img_0180
四季の美しさに彩られた渓谷と猿橋とが織りなす風景は、江戸幕府が五街道の一つとして整備した甲州街道の中でも随一とうたわれました。そのため多くの文人・墨客が訪れ、なかでも歌川(安藤)広重は、強く心を打たれ『甲陽猿橋之図』を描きます。「甲斐の山々遠近連なり、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり、十歩二十歩歩く間に変わる絶景、言語に絶えたり、拙筆に写し難し・・」は広重の「甲州道中記」の中、この地を表した文章です。
ip_size_r
猿橋からはもう1つ貴重な遺構が望めます。「八ツ沢発電所一号水路橋(国指定重要文化財)」は、明治45年に建設された八ツ沢発電所に送水するために作られた鉄筋コンクリート製の水路橋で、建造には高度な建設技術が発揮され、土木技術史上においても価値が高いと認められています。
img_0150
橋のたもとには小さなお宮があり、広場をはさんだ向かいには、江戸時代からこの地で続く(元旅館、現在はそば屋を営む)大黒屋(だいこくや)があります。名物の「忠治そば」は、当時まだ旅館だった頃に『赤城の山も今宵かぎり・・』の名セリフで知られる国定忠治が逗留していたことに所縁があります。
river
桂川の方へ降りていくには、お宮と大黒屋のある広場の脇から峡谷へ降りる坂と階段を利用します。
img_0200r
深い緑碧の川面は神秘的で、まるで吸い込まれそうな水の色です。
img_0190r
途中に岩でできた天然のテラスのような踊り場があり、そこでひと息つくことができます。下から峡谷を眺めるちょっとした見晴らし台の役目も。ちょうどここからは「八ツ沢発電所一号水路橋」を仰ぎ見るかたちです。
img_0204r
峡谷を抜けると、川辺の景色は一変。岩肌の露出した険しい峡谷のイメージとは対照的にそこには小春日和のなごやかな風景が広がっていました。

 

写真:乃梨花

燃える天然記念物! 伊豆半島の春を告げる大室山の丸焼きを見よ
<静岡県伊東市>

oomuro01伊豆半島伊東市にある大室山は標高580mの独立峰で、単成火山の典型例として2010年に国の天然記念物に指定された名峰。お椀を逆さにしたような美しい形はまさに絵に描いたような山容で、火口のなかには大室山浅間神社という神社も存在している。そのためか去年(2016)大ヒットしたアニメ映画「君の名は。」に登場する山に似ているとネットの一部で話題にもなりました。

oomuro06
特徴あるシルエットは東伊豆の様々な場所から確認でき、個人的に東伊豆のランドマーク的存在だと思ってます。

oomuro10

大室山は歩いての登山は禁止されていますが、リフトに乗れば山頂まで6分。ちょっと怖がる人もいそうな角度でぐいぐい登っていきます。

oomuro17

お鉢は歩いて一周できるので、晴れていれば富士山や伊豆七島など、360度の眺望が楽しめます。ただし、風が強い時があるので、リフトに乗る前に上着を一枚持っておいた方がよいでしょう。

oomuro09

そんな大室山でぜひ見ていただきたいのが、700年余りの伝統がある「山焼き」。なんと、カヤで覆われた山に火をつけ全体を焼き上げてしまうという、年一回の大イベントです。午前中に噴火口内が焼かれたあと、式典を挟んでから山全体に火をつけます。

oomuro11

先着順(有料)で山に火をつける権利を得た一般の方たちが、消防団とともに山麓に散らばり準備万端。見ている方の期待も最高潮に達する瞬間です。

oomuro13

本部の合図とともに点火されるのですが、最初はチロチロとした火がいくつも上がっていくだけ…「これで山が燃えるのか? 」と不安になりますが…。

oomuro05
中腹のやや下あたりから、合流した火炎が一気に勢いを増し、バチバチという音とともに盛大に燃えはじめます。けっこう離れていても熱さを感じ迫力満点! 巨大な火炎はそれだけで人を興奮させる力がありますね!!

 

大室山山焼きの動画

 

oomuro07
舞い上がった煤と煙で空も急速に暗くなり、前々回訪れたときは龍のように渦をまいて舞い上がる気流も発生! 本当の山火事の恐ろしさを想像してしまうとともに、貴重な現象を見ることができて感動。

oomuro15

これは山焼きで焼かれたあとの火口内です。正面に見えるのはリフトの駅で、そこから火口内に続く階段を下りると、安産と縁結びにご利益があるといわれる「大室山浅間神社」が中腹にあります。さらに、火口の底まで降りるとなぜだかアーチェリー場が? ここでは観光客向けのお手軽体験なども用意されています。

oomuro02

ちなみに…山焼きの実施は毎年2月の第2日曜日というコトになっているのですが、雨風や積雪などの状況により、延期になることも多いです。記憶では3月まで引っ張ったこともあるので、大室山リフトのHPなどで開催状況を確認してからお出かけを。

 

【延期時のオススメ】
延期が続くと桜が咲き始め、花見も一緒に楽しめるというメリットが発生します。山焼きの見物スポットである「さくらの里」は、その名の通り桜の名所。そこがまだ咲いていない場合は、早咲きで有名な「河津の桜まつりまで足を伸ばすと良いでしょう。

kawazu02

北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み〜『城下町佐倉』の武家屋敷群
〈千葉県佐倉市②〉

JR佐倉駅から歩いていける『武家屋敷通り』は、鏑木小路(かぶらぎこうじ)にある。慶長15年(1610)に土井利勝が佐倉に入封し鹿島山城(佐倉城)を築城。そのさい城下町の一部に取り込まれたのが鏑木村。鏑木の地名は『かぶら(傾)+き(処)=傾斜地』が由来だ。
img_7851
ここで、現在公開されているのは旧河原家、旧但馬(たじま)家、旧武居家の3棟。江戸時代の武家屋敷は、その大半を藩が所有し、藩士に家を貸し与えると言う、いわば官舎のかたちをとっていた。ここ佐倉では旧河原家(写真)が【大】、旧但馬家が【中】、旧武居家が【小】と「天保御制(てんぽうぎょせい)」で定められた「大・中・小」それぞれの基準の家が見られる。
img_7649r
この3つの家の中で、いちばん上格は旧河原家。条件は、禄高三百石以上(から千石未満)。弘化2年(1845)に記されたこの屋敷に関する古文書と建築様式(構造・部材・風蝕)から、佐倉に残る武家屋敷の中で、最古のものとされる。室内の調度品も当時のものを配してあり、じっくり見ても飽きのこない風情が宿る。
img_7946
奥は座敷(客間)。武家屋敷のなかで、なにより重視されたのが接客用の部屋だった。この屋敷の中でも客間がもっとも広く(10畳)、位置取りも正面と横から庭の景色が眺められる南東の角の1番良い所。また客間には専用の玄関(上がり框)とトイレ(雪隠)もしつらえてある。
img_7823
その隣りの禄高百石以上の藩士の家である旧但馬家住宅は、坪数27~33坪くらいにあたる【中屋敷】。3棟のうち、ここだけがもとからあった場所に復元整備された。庭の植栽や敷地の形状も江戸時代からこの屋敷とともにあったものだと知ると、感慨深さもいっそう増す。
img_8140r
河原家と同様、ここも裏庭には畑をもつ。武士の生活は質素で、米以外の作物は自給自足が基本だった。
img_8097r
2体の甲冑が飾られた接客用の座敷。広さは12畳半あり、客室を比べれば大屋敷の河原家より広い。居間も7畳に床の間がつき、全体でも河原家と同等かもしくは広い家という印象さえするが、全体の格式などから「天保御制」の中屋敷に当たるという。
img_8188r
3つの屋敷の中でもっとも小さい(23坪)旧武居家住宅は、百石未満の藩士に割り当てられた。ここ鏑木小路は上級武士のための居住区域だったので、武居家は本来はこの場所には該当しない。現在は鉄板葺きに復元されている屋根も、はじめは茅葺だったという。
img_8265
座敷の床の間に飾られた佐倉藩士の肖像写真。居住まいを正したくなるような凛とした気配が写真からも伝わってくる。
img_8277r
この家では土間と台所と湯殿が一箇所に集められている。狭い家の場合は、その設計において「どこを削ったか?」を見れば、「なにを優先したか?」がわかるしくみ。このたった23坪の家のなかで「玄関が3畳もある」のは、現代では考えにくい。
img_8313
庭先の寒菊も藩士の住まい同様に、素朴な和の美をみせていた。

 

写真:乃梨花