上野の狸に化かされる? 民家のような寺院が集中するトーハクの東
<東京都台東区>

ueno05_02前回紹介した徳川将軍霊廟勅額門を過ぎても霊園は続く。

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ueno05_01トーハクの北門は殺風景だが、柵の中を見ると庭園になっていて、遊歩道も整えられている。ここは、桜や紅葉の時期のみ一般開放される庭園で、綱吉が法隆寺に献納した五重塔など主に江戸時代の建造物や、茶室が配されている。5棟ある茶室はすべて歴史ある建物。1日数万円で借りることができるので、一般開放以外で中に入りたいという方はお試しあれ。茶会や句会のほか、会議やコンサートにも使えるそうなので、イメージより敷居は低そうだ。

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トーハク北側を端まで歩くと、小さいロータリー(タクシーのパーキング?)にでる。左に曲がり忍岡中学校前の坂を少し下ればJR鶯谷駅、右へ曲がりトーハクの塀沿いを歩くと上野公園に戻る。

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この上野公園に戻る道沿いのトーハクと反対側は、おどろくほどたくさんの寺院が集まっている区画。「お寺かな?」と思って近寄ってみると立派な民家のように見え、「民家か」と思ったら寺名の書かれた札がかかっていて「やっぱり寺だった」とわかる。そういう類の寺院が集中している。

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ueno05_09そのうちの一つ、トーハクの柵と並行した道沿いにある「寒松院」は、戦国武将・藤堂高虎が開基。高虎の法名をそのまま寺名にした寺院で、法名を授けたのは寛永寺の初代住職である天海大僧正とのこと。家康の死に際の言葉を受けて天台宗に改宗したという高虎は、かなり徳川家に信用されていたようだ。さらに、屋敷が上野動物園から東照宮にかけた場所にあったり、上野公園に今でも墓所があるなど、藤堂高虎は上野の山とのつながりも深い。

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門内に入ると美しく整えられた庭の向こうに立派な家屋があるのだが、どうも住居のようだ。造りが昔風で粋をこらしているので寺社風に見えるが、ここへ参拝するとは思えない。はて? と思い右手をみると、寺院らしい建物。

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ueno05_09.3賽銭箱などはないのだが、おそらくコチラが「寒松院」なのだろう。よくみると下がり藤のなかに堂の字が入った紋が掲げられていた。

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寒松院の隣は1651(慶安4)年から続く由緒をもつ「林光院」。立派な表門は徳島藩の大名が所有していた中屋敷御庭仕切門を移築したもので、仕様は総欅造、銅板葺、平唐門。

ueno05_13.1門構えは歴史を感じさせるが、門内は和洋折衷で建築会社の広告にでてきてもおかしくないオシャレ感あふれる建物。鉄筋コンクリート総2階建てのご本堂は1989(平成元)年に完成されたそうだ。

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門前にはロシア人作家チェーホフの名言を毛筆で書いて掲示していたりと、かなりユニークなご住職のようである。

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その他にも立派な門、美しい庭、歴史ある建物がズラリならんでいるこのあたりは、実は寛永寺の子院が集中している区画とのこと。中心を貫く小道の入り口には、寛永寺の私有地であることを示す看板が立てられていた。
gousei0729b.inddどの寺院も住居を兼ねているようなので、公開はしていないようだが、外からでも日本家屋の美しさを伺うことができる。この区画の回りを一周すると、思わぬ発見があって楽しい。

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そういえば、東側に子院のひとつ「現龍院」の墓地があった。そこには1651(慶安4)年に3代将軍家光の後を追って殉死した侍の墓や、東京大空襲の慰霊碑があり、身近な場所で思わぬ歴史上の出来事を思い返すことになったのだが、さらに驚いたのは、門に貼られていた注意書き。

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東京の山の手の内側に、いまでも狸(タヌキ)が住み着いているとは…誰かが離してしまったのか、代々住み着いているのかは分からない。しかし、豊かな緑や歴史的建造物に囲まれた上野の山の奥であるなら、なんとなく昔から住み続ける狸がいてもおかしくないような気がした。

芭蕉が歩き、参勤交代が往き交った日光街道「草加宿」
〈埼玉県草加市〉

江戸時代、千住宿に次ぐ日光街道第2の宿駅として発展した草加宿は、東北地方の諸大名が参勤交代で往来し、松尾芭蕉が「奥の細道」で通った地としても知られています。
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草加松原は、草加6丁目付近から約1.5キロメートルの旧日光街道沿いの松並木。江戸時代から「千本松原」と呼ばれ、街道の名所となっていました。この美しい往時からの歴史的風致を後世に残すため、平成26年3月に国指定名勝に指定されました。
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札場河岸公園(ふだばかしこうえん)の「芭蕉旅立の像」。「奥の細道」には「その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり」とありますが、弟子の河合曾良(そら)の脚色を含まない随行日記の方には、旅の初日に「カスカベ(粕壁)ニ泊ル」とあり、一致しません。これは、粕壁宿までの6里28町を一気に旅したのでは、惜別の悲しさを詠んだ「行春や鳥啼魚の目は泪」の句の効果が薄らいでしまうことや、うしろ髪をひかれながらの出発で初日は思ったほど歩が進まなかった、と見せたい創作上の理由とも考えられています。
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松原遊歩道にある矢立橋の階段には、ところどころに参勤交代を描いたタイル画が埋め込まれています。日光街道は江戸時代に幕府の政策として整備された五街道のうちのひとつで、江戸・日本橋を起点とし、日光東照宮までを結ぶ街道です。東照大権現と崇められた徳川家康の墓があり、歴代将軍や諸大名の参拝のための主要道路として東海道の次に整備され、大名の参勤交代にも利用されました。
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道路元標(げんぴょう)のあるここは、かつて問屋場のあったところです。そのすぐ先には、本陣清水家の跡をしるす石碑。道路を挟んでもうすこし先の向かいには、大川家の本陣跡をしるす石碑が見られます。
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草加小学校の敷地の一角にある歴史民俗資料館。この一帯に、草加宿の開宿に尽力した大川図書(おおかわずしょ)の屋敷がありました。千住と越谷の間には、最初は宿場はなかったのですが、大川図書が中心となり、慶長11年(1606年)に現在の旧街道筋にあたる低湿地帯を土や柳の木、葦などの草で埋め固め、新しい道を築き上げたといいます。
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東福寺は、大川図書により、1606(慶長11)年に創建されました。境内には大川図書の墓所があります。
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おせん茶屋公園は、草加せんべいの伝説上の祖である、おせんさんの名にちなんで命名。「草加せんべい」のはじまりは、草加宿の茶屋で働くおせんさんが売れ残りの団子を潰して薄くのばし、天日で乾かして焼いたものを売ったところ、人気となり、今に伝わるとされています。
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旧日光街道沿いに建つ藤城家を側面から。背後に趣のある土蔵が見えます。
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同じく藤城家。明治期に建てられた貴重な町家で、国の登録有形文化財にも登録されています。
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「草加宿 神明庵」は、旧日光街道沿いにある市民ボランティアが運営するお休み処。建物は約150年前、江戸時代築の久野家を改築したもの。久野家はかつて大津屋という料理屋を営んでおり、二階部分は宿泊施設を兼ねていたようです。現存する建物は店舗部分で後ろに住まいがあります。安政二(1855)年の江戸大地震と明治3(1870)年の草加の大火をくぐり抜け、歴史ある佇まいを今に残しています。外観は平入切妻造り瓦葺き。店舗部分と背後の住居部分が丁の字で組み合わされた「町屋建築」。出入り口には「揚戸(あげど)」を用い、全開で日差しが奥まで入ります。内部の天井部分は「差桁(さしけた)」と呼ばれる梁が縦横に組み合わされた構造です。
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谷古宇(やこう)稲荷神社。歴史は古く1600年代の創建だそうです。
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こじんまりとした小庭的な神社なのに、これがなかなかのパワースポットだったり?
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草加の町には、いたるところに名物「草加せんべい」の店が。ところが老舗と言えども?こちらが求めるところの骨董品チックな「風情たっぷり!」の店に出会える確率は意外にも少ないのでした。ということで、今回探しに探し歩いて、やっと「ココは!」と思えるお店を見つけたのでご紹介します。
その名も「創業三代 おんまや分店」。
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昭和レトロ感たっぷりなこの店は、作りつけのガラスと木でできたケースが店内いっぱいに置かれ、ノスタルジーさえ漂います。昔の時代にタイムトリップしたかのような雰囲気あふれる店内で、お土産やおやつ用のせんべいを吟味しながらゆったり過ごしてみるのはいかがですか?

 

写真:乃梨花

六将軍と篤姫が眠るトーハク裏の霊廟
<東京都台東区>

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ueno_c00b寛永寺第3霊園の入り口に立つと、庭のように美しく整えられた駐車場の奥に、墓所とは思えない石垣が見える。

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ueno_c00e石垣の手前には重要文化財である常憲院霊廟勅額門がある。門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。常憲院とは「生類憐みの令」を施行したことで有名な江戸幕府5代将軍・綱吉のことで、前回紹介した根本中堂を初めに建立(上野戦争で焼失)したのも彼である。綱吉の霊廟は1709(宝永6)年に竣工し、非常に整ったものであったと伝えられているが、維新後に解体されたり第二次世界大戦で焼失し、勅額門と水盤舎のみが残っている。

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また、廟内には綱吉のほか有徳院(8代将軍・吉宗)、温恭院(13代将軍・家定)と、2008年NHK大河ドラマの主人公となった天璋院(篤姫)の墓所もある。篤姫は夫であった江戸幕府13代将軍・家定の隣に眠ることができた。これは明治になり将軍家のしきたりが薄れたから実現できたと言われるが、それ以上に徳川家のために力を尽くした篤姫への気持ちもこめられていると思う。

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門前には柵が設けられており近寄ることはできないので、門内にある水盤舎は見ることはできない。しかし、豪華で美しい門を眺めれば、焼けてしまったという霊廟や、徳川家の時代を思い描くことができるだろう。

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ueno_c01第3霊園駐車場の入り口にも徳川家の葵紋がビシッと付けられている。上野の山では様々な場所で葵紋を見ることができるが、きらびやかで大きいモノは、なかなか近くに寄れない。そのためか、ここで記念撮影する人も結構いるようだ。

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東京国立博物館入り口の真裏の一辺と平行して霊園は続く。ここらは本当に静かでゆっくりとした時間が流れているように感じられるため、昼寝や休憩のための車がいつも列を作っている。写真はものすごく渋滞しているように見えるが、エンジンをかけている車は少ないので、意外なほど落ち着いた空気感は保たれているのである。ただし、タクシーに声をかけても乗せてもらえない場合もあるかも。

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そんな車の列を横目に1~2分ほど歩くと、車道沿いの柵の向こうに、2つ目の勅額門が見られる。 こちらも重要文化財である厳有院霊廟勅額門。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺で、先ほどの常憲院霊廟勅額門と同じ。

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厳有院とは江戸幕府4代将軍・家綱のことだが、浚明院(10代将軍・家治)、文恭院(11代将軍・家斉)も廟内に合祀されている。徳川将軍の墓といえば日光と答える人が多いと思うが、上野の山にだって6人もの将軍が静かに眠っているのだ。

 

つづきます

大寺院なのに“ひっそり”と感じる「東叡山 寛永寺」
<東京都台東区>

ueno_03a前回紹介した「国立国会図書館 国際子ども図書館」を、通りすぎると写真の三叉路にでる。ココを左に曲がって少し歩くと「東叡山寛永寺 根本中堂」。

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寛永寺の歴史は徳川二代将軍秀忠が天台宗の僧天海に上野の山を与えた1622(元和8)年に始まっている。根本中堂は1698(元禄11)年に現在の上野公園噴水広場あたりに建てられたが、1868(慶応4)年の上野戦争で炎上。その後1879(明治12)年になって川越喜多院の本地堂を移築して再建された。

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最澄作といわれる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を祀っている堂内は、公開されていて誰でも入ることができるが撮影は禁止。中に入ると回廊の一辺が歩けるようになっていて、畳数枚分離れた場所に思いのほかきらびやかな本尊が見られる。また、入ってすぐ左には、御朱印を書いてくれる僧侶がお座りになっていた。

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根本中堂の境内には国指定重要文化財の旧本坊表門に据えられていた鬼瓦や、根本中堂に据えられていた鬼瓦、

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虫類写生図譜「虫豸帖(ちゅうちじょう)」を描いた伊勢長嶋藩5代藩主・増山正賢の意志により、虫類の霊をなぐさめるため建てられたという都指定有形文化財の虫塚碑、

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四代将軍・家綱公ご霊廟の梵鐘などの文化財とともに、明治7年に刻まれた上野戦争碑記が展示されている。

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「慶応四年戊辰正月」で始まる文では上野戦争の経緯が漢文で記されており、すべての文字を解読できなくても生々しく感じることができる描写である。文末に「明治七年甲戌五月幕府遺臣阿部弘臧撰 清蘇州費廷桂書」とあるように、書いたのは上野戦争に参戦した幕臣であるから、まさに生きた証言といえるだろう。ここで日本人同士が戦っていたということが、急に現実のものとして感じられた。

ちなみに、文章は明治7年に書かれたが、石碑になったのは明治45年。40年近く時間がかかったのは、明治政府が許可を出さなかったためだ。

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本堂の左側を通ると立派な寺務所があるが、こちらは非公開。根本中堂とつながったわたり廊下をくぐり抜けると第3霊園になる。

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園内は山の手内とは思えない広さ。不思議なことに車や人ごみの喧騒はあまり聞こえず、虫のなく声がやたら聞こえてくる。遠くを見るとビルなども見えるのだが、なぜか懐かしさを感じてしまう場所だ。

 

 

次回も寛永寺つづきます。

東京国立博物館の塀沿いを歩いて国際子ども図書館へ
<東京都台東区>

ueno_b01前回の最後にお伝えした東京国立博物館は公園を貫く通りのつきあたりにあるので、ココから先に行く人は少ないがまだまだ上野の山は続く。

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博物館を出て右手の塀沿いを歩いていくと、すぐに重厚な門が見えてくる。これが昭和26年に重要文化財に指定された「旧因州池田屋敷表門(黒門)」。入母屋造の屋根、門の左右に向唐破風(むこうからはふ)造の番所を備え、大名屋敷の表門としてもかなり格式が高く、明治以降は移築して宮家がご使用になられ、昭和29年になってから現在の場所に移築されている。重厚で威圧感のある装いは、内と外とを隔てる「門」という物の存在意義をあきらかにしているように感じる。江戸時代には「この門をくぐることなど考えられない」という人がほとんどだったはずだが、現代は土・日・祝日の10:00~16:00(天候により中止あり)は開門している。可能なら開門時にきて、通り抜けてみてはいかがだろう。

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ueno_b04黒門を通りすぎ塀の曲がり角になる位置には、かって京成電鉄の一駅であった「博物館動物園駅跡」がこじんまりと佇んでいる。この駅の開業は京成本線開通と同じ年の1933年(昭和8年)。1997年営業休止、2004年に廃止された。地下鉄の駅舎としては非常に凝ったデザインは、博物館など文化施設への入り口を意識してのことだろう。いまでは凝ったと表現できるが、地下神殿の暗闇へと降りていくような入り口は、子供の頃の印象は「怖い」というだけであった。結局一度も入ることなく廃駅となっていたが、いまでも京成電車に乗ると残置されたホームが見られるらしい。なんだか不思議な存在だ。

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駅跡の道向かい、一部喫茶店になっている建物が2002(平成14)年に国の登録有形文化財に指定された「黒田記念館」。

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日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝(くろだせいき)の遺言により1928(昭和3)年に竣工し、その2年後に帝国美術院付属美術研究所として開所。館内の黒田記念室では遺族の方々から寄贈された遺作の油彩画、素描等が展示されている。遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるという遺志をうけてか、観覧料は無料。トーハクからひと足延ばす価値がある。

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博物館動物園駅跡と黒田記念館の間の道を行くと、多数の四角形が組み合わされたように見える建物がある。これは、文化財の保護・活用や芸術文化の発展に尽力している「公益財団法人 文化財保護・芸術研究助成財団」のビル。

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一般公開しているわけではないが、入り口の横には上野周辺の文化的行事案内のほか、広報誌や財団の案内などが置かれているので、興味がある方は手に取って読んでみると良い。私たちが目にすることができる文化財の多くは、多数の人の善意と尽力で残されているということがわかる。

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ueno_b08b財団の隣は「国立国会図書館 国際子ども図書館」で、写真のレンガ棟は帝国図書館として1906(明治39)年に建設された明治期洋風建築の代表作とされる。ここは国立国会図書館の支部図書館として設立された児童書専門図書館で、その名の通り子どものための施設だが、児童書研究資料室など児童書に関する資料専門のフロアもあり、年齢を問わず入館することができる。内装も趣があり素晴らしいので一度は訪ねてみるべき。また、館内にはカフェテリアもあり、リーズナブルな価格で食事や喫茶ができる。上野で歩き疲れたときに、ゆっくりと落ち着いた時間が得られる貴重な場所だが、あまり知られていない穴場である。

 

つづく

藁葺屋根の観音堂と山間に残る「オール“突き上げ屋根”集落」
〈山梨県甲州市〉

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江戸時代から養蚕が盛んだった甲州市の塩山(えんざん)地域では、今でも養蚕の歴史を色濃く残す風景に出会います。日本では明治期に富国強兵政策を支える殖産興業として、飛躍的な増産を成し得た養蚕ですが、そのためにここ山梨では養蚕に適さなかった山間地にまで桑が植えられ、多くの伝統的な茅葺切妻造(かやぶききりづまづくり)民家や屋敷構えにも影響しました。蚕を育成する場である屋根裏の日当たりや風通しを良くするために屋根の中央部分をせり上げた「突き上げ屋根」の特徴がほぼすべての民家にみられます。この景観を保全するため、重要伝統的建造物群保存地区になりました。
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金剛山と呼ばれる舌状台地の付け根に位置する観音堂は、村の中心にあり、この観音堂の前に立って集落全体を眺めると、堂を囲むように集落が形成されているのがわかります。現在は集落の集会所として利用されていますが、本来は宗教施設として利用されていました。この金剛山には他にも金井加里神社、真言宗福蔵院と、宗教施設が多く見られます。古来から日本では、特異な地形そのものが信仰の対象になる風習(山岳信仰やアニミズムなど)がありました。
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観音堂の内部に設置されている子安観音。修行僧の木食白道が1781年(天明元年)27歳の時に掘ったもの。「木食」とは「木食戒」と言って五穀と塩を絶ち、火を使った料理をせず、草の根や木の実などを主食として修行を行う僧侶のこと。そんな過酷な修行を何年も続けた後に郷里へ戻ってきて作ったのがこの像と言われています。開眼?もしくは一種の悟りのような境地に至った末に、彫られた像かもしれません。じっさいに多い時にはこの僧侶のご託宣を目当てに1,000人もの人がこの小さな観音堂に集まったという言い伝えもあります。仏師としてもなかなかの腕と言われ、裏表に合わせて100体もの観音が掘られています。
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八代将軍吉宗の時代に薬用植物の甘草(カンゾウ)を栽培して幕府に納めていたことから甘草屋敷の通名で有名な旧・高野家住宅は、江戸時代後期の民家と屋敷のあつらえを歴史に残す重要文化財であると同時に、甲州地方の「突き上げ屋根」養蚕民家の代表格とも言える家です。また11月半ばから、この甘草屋敷の軒下にいっせいに柿を並べて寒風にさらし、ころ柿(干し柿)を作る風景は、いまや関東の冬の風物詩としてもよく知られています。

 

写真:町旅編集部

北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並〜江戸優りの商家町「さわら」でぶらりレトロな商家建築めぐり
〈千葉県香取市②〉

利根川舟運の中継地として栄えた佐原には、江戸時代から続く商家が老舗として、現在も数多く残っています。それらは歴史的な建造物としても価値があり、とくにここ数年、文化庁選定の重要伝統的建造物群保存地区となってからは、その魅力にいっそうの輝きが加わりました。今回は、そんな佐原の味わい深い建物をじっくりと見ていくことにします。
IMG_7283佐原のシンボルとしても知られる三菱銀行佐原支店日本館は、大正3年(1914)に建てられたレンガ造りの2階建の洋館です。屋根は木骨鋼板葺き、正面にはドームが設けられており、外観は基本的にルネッサンス様式です。内部は吹き抜けで、2階周囲には回廊が施されています。明治期のレンガ造建築の様式をたずさえた、モダンで意匠的にも優れた設計です。
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安政2年(1855)建築の中村屋商店は、代々畳材料や雑貨などを扱ってきた商家です。ここは、香取街道と小野川に面した変形の土地の角にあるため、母屋の角には五角形の珍しい柱があることでも有名。低めの2階部分の外には回廊の手すりの様に幅木が回され、軒は銅版で葺かれるなど意匠にも工夫が見られます。また内部は架構に工夫を凝らした造りとなっています。
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正文堂は、江戸時代から書物の販売、出版などを営み、伊能忠敬もここで本を買い求めたといわれる書店です。東日本大震災では多大なダメージを被りましたが、現在では修復を終え、美観を取り戻しています。明治13(1880)年建築の切妻平入り2階建て(3階に改造)の土蔵造り。屋根瓦は幅の狭い丸瓦を使用した本瓦葺きで、黒柱にはケヤキを使用し、2階の窓には「土蔵の開き」「横引きの土戸」「板戸」と三重の防火設備が設けられるなど、全体に重厚感が漂う造りです。
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香取街道と小野川が交差する忠敬橋(ちゅうけいばし)の袂(たもと)にある絵になる中村屋商店と、通りを挟んだ向かいに威容で佇む正文堂。どちらも佐原を代表する江戸の商店建築で、肩を並べる景観にはなにやら迫力さえ感じられます。
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小堀屋本店は、1782(天明2)年創業の老舗のそば屋で、代々家宝として受け継がれてきた秘伝の麺の製法による名物「黒切りそば」でも有名。昆布の粉を練り込んだ真っ黒な麺は、1度は試してみたいもの。週末に店の前に行列ができる光景も、いまやすっかりおなじみです。
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中村屋乾物店は、明治25年(1892)に佐原を襲った大火直後に当時最高の技術を駆使した防火構造により建てられました。壁の厚さは1尺5寸(約45cm)と厚く、2階の観音開きの土扉が看板にもなっているのが洒落ています。建築当初とほとんど変わらない姿を保っているそうです。
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佐原ではもっとも古い歴史を誇る旅館のひとつ、明治34年(1901)建築の木の下旅館。少し驚く意外な料金でこの歴史ある建物に泊まることができるのは、案外まだ知られていません。
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小野川沿いから見た植田屋荒物店(の白い土蔵)。創業250年になる江戸中期からの荒物(ざる、かご、箸、いぐさ、ゴザ、スリッパ、たわし、扇子、調理道具、食器、茶道具などの生活雑貨)の老舗です。こちらの暖簾がかかっている蔵への出入り口は、現在は通りぬけできず、蔵の中へは香取街道沿いにある店舗奥から入れるようになっています。蔵は現在、店舗の一部として利用されているため、出入りが自由。土蔵の中を探検気分でのぞくだけでも一興です。
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江戸から続く老舗で伝統に培われた品物を見定めしながら、小江戸の風景の中をのんびり散策していると、時間もゆっくり。気持ちもほぐれていくように感じます。
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文化4年(1807)創業の千本格子が美しい割烹「宮定」。もとは、魚問屋で蒲鉾を製造・販売していたそうです。
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虎屋菓子舗は、創業が明暦3年(1657年)の老舗。地元産のさつまいもを使った「芋ようかん」や落花生入りの「楽菓もなか」などが人気で品揃えも豊富。紀の国屋商店は「佐原まちぐるみ博物館」のひとつで、初代当主が買い求めた陶漆器などの骨董品が展示されています。
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馬場本店酒造は、天保年間(1681〜1683)創業。もとは佐原の地で糀屋(こうじや)からスタートし、170年ほど前の天保十三年の時から酒造りを始めました。清酒と合わせて製造販売している白味りんの「最上白味醂」は当時の製造法が受け継がれたままの約160年にもわたるベストセラー。また建物の中でもっとも目を引く煙突は高さ13m、明治31年の建築で、イギリスから輸入したレンガ積みの構造。その壮観な構えは、酒蔵のトレードマークにもなっています。
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東薫酒造は、江戸文化が華やぐ文政8年(1825)の創業と伝わる老舗。歴史と伝統を感じさせる酒蔵では、無料の酒蔵見学と試飲サービスを毎日行っており、ツアー客も多く訪れます。東薫の酒を造っている杜氏の及川恒男氏は、越後や丹波と並ぶ日本三大杜氏のひとつ、南部杜氏400人を代表する酒造りの名人としても知られ、その酒は全国に名指しするファンを持ちます。
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小野川沿いの端に位置する与倉屋大土蔵は、明治22(1889)年に建てられた日本最大級の土蔵で、なんと!その広さは500畳分!何層にも張り巡らされた梁や蔵の持つ独特な雰囲気は撮影やコンサート、イベントなどにも広く利用されています。与倉屋は、江戸末期より戦前まで醤油の醸造業を営む商家として知られ、蔵は年貢米の貯蔵庫にも使われていた歴史があります。
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佐原の老舗のひとつ、正上(しょうじょう)の屋標(マーク)の入った土蔵(現在内部は改装されレストランに利用)の壁部分。正上は創業から200余年、江戸時代より醤油の醸造をしていた佐原を代表する老舗のひとつです。9代目の現当主からは、小野川沿いにある「いかだ焼本舗」の食品製造分野でも知られています。

 

写真:乃梨花

世界文化遺産となった国立西洋美術館から東京国立博物館
<東京都台東区>

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東京の下町では上野恩賜公園一帯を「上野の山」と呼ぶことが多い。ここが特に注目をあびるのは、春の花見の場所としてだろうか。その時期になるとTVで中継され、近年は外国人が大挙して押し寄せるという報道もよく見る。しかし、上野の山にとって花見はごく一部の見どころであり、訪れるべき場所は他にも数多くある。ひとむかし前の上野公園はどこか垢抜けず、なんとなく猥雑な部分も残されていたが、ここ数年で非常に美しく洗練された。少し寂しい感もあるが、訪れる方に薦めやすくなったのは確かである。

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アクセス方法は無数にあるが、駅構内のエスカレーターなどを使って比較的山の上部に出ることができるJR上野駅の公園口がオススメ。

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ueno_a05改札を出て道路一本渡れば上野公園内に入ることができ、園内図や催事の案内が掲示されているうえ、50mほど先には公園案内所もある。

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公園案内所の隣が、今月(2016年7月)世界文化遺産登録されたばかりの国立西洋美術館。フランス政府が中心となって推進する世界遺産「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」の構成要素として、本館の建造物が2016年7月17日に世界文化遺産となった。

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ル・コルビュジエとは20世紀を代表する近代建築の3大巨匠のひとりで「近代建築の五原則」を定式化し多大な影響を及ぼしたそうだ。国立西洋美術館の本館は「無限に成長する美術館」という構想のもと彼が日本で設計した唯一の作品で、2007年の12月には、国の重要文化財にも指定されている。実は、このとき国重要文化財(建造物)指定の目安である「築50年以上」には2年ほど足りていなかったが、世界遺産登録のために少々早められたようだ。

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最近の話題は本館の建築物に集中しているが、もちろん美術館としての価値も高い。1959(昭和34)年4月の設立以来、明治時代に総理大臣を務めた松方正義の三男、松方幸次郎が築いた「松方コレクション」を核とした常設展のほか、時宜や趣向を考えられた企画展が年間を通して開催されており、西洋美術に関する作品を広く公衆の観覧に供する機関として、芸術の保護・文化の育成に寄与し続けている。

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世界遺産構成資産には景観保全のための緩衝地帯が設定され、国立西洋美術館の場合は上野公園全域が範囲にあたっているそう。一連の流れは上野の洗練化にも一役買っているようだ。そういえば、西洋美術館沿いに国立科学博物館へ向かう道も、綺麗に舗装され道幅も広くなっている気がする。

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ueno_a09aシロナガスクジラの原寸大模型が入り口横に設置されている国立科学博物館は老若男女を問わず楽しめる施設だ。400万点を越える収蔵品のうち、1万点以上が常設展示されていて、誰でも必ず興味があるものにであえる。館内は広いので、見学時間はたっぷり取っておいた方が良い。企画展を見てから常設展を回るとあっという間に閉館時間間際。で、「心残りアリ」というのが私のパターンだ。

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科学博物館を出て20メートルほど歩くと、噴水がある広場にでる。都内ではなかなか見ることができない広い空と、木々に囲まれた一角は都民の癒やしスペース。もちろん観光で歩き疲れたときも、気持ちよく休憩ができる。週末になるとヘブンアーティストと呼ばれる都の審査に合格した大道芸人によるパフォーマンスが行われ、人だかりができていることも多い。

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噴水から反対側を向くと、創設1872(明治5)年の日本初の博物館「東京国立博物館」がある。本館のほか、表慶館、東洋館、平成館、法隆寺宝物館と合計5つの展示館やその他の施設で構成され、10万点を超える品を収蔵しているそうだ。

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和洋折衷のデザインを持つ本館は、1938(昭和13)年に開館し、2001(平成13)年に「旧東京帝室博物館本館」の名で重要文化財に指定された。なかには多数の国宝を含めた数多くの収蔵品がテーマごとに展示されている。義務教育の教科書に掲載されている歴史的・美術的に貴重なものも多く、「ここに実在していたのか」という驚きを感じられる。コチラも館内が広いので時間には余裕をもって訪れたい。5つの展示館すべてをまわるには、丸1日かけても足りない可能性が高い。

 

つづく

リアル白鳥の湖、昭和ノスタルジー、そして美味しい旅のお供の水戸後編
<茨城県水戸市>

偕楽園を満喫して、そろそろお腹も空いたな…というところに、素敵なカフェを発見!

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好文亭からの眺めに一役買っていた、千波湖(せんばこ)の湖畔に佇む「好文Cafe」。ガラス張りの建物からは千波湖を一望できます。…が、腹が減っては景色も満喫できぬ! ということで、「茨城牛のビーフシチュー」を早速オーダー。

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写真の通り、結構お肉が大きいのですが、ナイフを入れるとほろほろと崩れて食べやすく、甘くないデミソースとよく合います。添えられたパンも小麦の味がしっかりしていて、食事にぴったり!  失礼な話、ここに来るまで「茨城=納豆」の印象しかなかったのですが…おみそれしました。

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お腹も満たされたところで、千波湖散策を再開。千波湖は平均水深が約1.0m程度であるため、分類上は「沼」になりますが、昔から「千波湖」と呼ばれているそうです。また、法律上は河川(桜川の一部)に位置づけられています。

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そんな千波湖では、至るところに野鳥が! エサを貰っているからか人が寄っても物怖じせず、のんびりと過ごしています。特に白鳥と黒鳥は千波湖のシンボルになっているようです。

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先ほどの好文Cafeにもこんな可愛らしいシュークリームがありました(もちろん美味しかったです)。

 

せっかくなので、白鳥気分で湖を満喫しよう(?)とスワンボートを借りることに。レンタルボート屋のおかみさんに「今日風強いけど…頑張れますか?」といわれたのに対し、意気揚々と出港したものの、案の定すぐに湖岸に流される大人ふたり。。。
日ごろの運動不足を悔やみつつ、どうしよう…と困惑していると、さっきまでレンタル屋で野鳥のエサの袋詰めをしていたお嬢さん(小学校中学年くらい)がボートに駆け寄ってきて、「あんまりこっち来ないほうがいいよー!」と慣れた様子で内側に押し出してくれました。一難去って安心しつつ「家業を当たり前のように手伝う」という昭和の原風景にほっこり。

 

昔話のごとくお嬢さんに助けられた運動不足のスワンご一行に、白鳥さんからサービス(!)が。
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ボートの近くに来てくれました…! おかげで蓄積された疲れも少し飛びました。そんなこんなで何とか時間内に船着き場に戻ってこれたものの、疲労困憊…。優雅に泳ぐ白鳥は水の中では必死に足を動かしているということを体験できた…ということにしておきましょう。今後スワンボートに乗ろうと思っている方、風の強い日には覚悟して乗ったほうがいいですよ…本当に。

 

 

さて、帰京前に一息つきましょう。と選んだのが、水戸駅構内にある「サザコーヒー 水戸駅店」。ひたちなか市に本社を置くこちらのコーヒー店で、その名も「徳川将軍珈琲」をいただきました。

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徳川慶喜の時代の珈琲を再現したというコーヒーは、濃厚な味ですが後味がさっぱりとしていて、ちょっと贅沢な大人の珈琲。江戸時代にこんなコーヒーを飲めたなんて、さすが将軍様!
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思わず追加オーダーしたケーキもこれまた美味でした。

 

上野から特急でおよそ1時間30分の地には、黄門さまの旅をサポートする「助さん・格さん」のように、旅を盛り上げてくれる「ご一行」が、色々なところに居るように感じた水戸の旅でした。「こりゃうっかり」楽しいこと間違いなし!です。

見るべきものは梅だけじゃない! 創造性溢れる9代水戸藩主の空間デザイン
<茨城県水戸市>

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日本遺産「近世日本の教育遺産群 -学ぶ心・礼節の本源ー」の物語を構成する文化財として認定された偕楽園。日本三名園のひとつで梅の名所として有名ですが、常陸水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭公が「多くの人々と楽しみを偕(とも)にしたい」と造った庭園の中には、梅の時季を過ぎても楽しめる施設があります。

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好文亭は、詩歌・管弦の催しなどを行い家中の人々とともに心身の休養をはかることを目的に、1842(天保13)年に建てられました。その「癒やしスポット」には、それぞれの名前を象ったデザインを施した部屋が配置されています。

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偕楽園のコンセプトのひとつに「陰の世界」「陽の世界」と相反するものの調和があるそうです。その「陰」部分を担う竹をモチーフにした「竹の間」は、欄間に竹の意匠が! そして襖絵にも竹の子が描かれている…。 現代の都会っ子(自称)からしてみると、竹の子のデザインが非常に新鮮で思わずニヤニヤ。

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そして「萩の間」。天袋(?)には夕方の眺め、下の襖は月と兎。まるで絵本のような世界が描かれています。この部屋は藩主夫人お付きの女中さんの控え室として使われていたそう。プレイボーイと云われた斉昭公、さすが女ゴコロを解っていらっしゃる!

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KIMG0305KIMG0274その他、偕楽園といえばもちろんの「梅の間」や、「桜の間」「紅葉の間」など、四季折々の植物が描かれた部屋がたくさんあります。おひとり様でお気に入りを穴の開くほど眺めるもよし、お友達と行って自分の推し部屋(!?)をアツく語りあうもよし。色々な楽しみ方ができることでしょう。

 

さらに、部屋をつなぐ通路からも計算されていると思しき眺めが…
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彩りがあるものだけが美しい訳ではない、とここで再認識。

 

そして急な階段を上ると、偕楽園を一望できるフロアに。KIMG0347
楽寿楼と呼ばれる3階からの眺めは格別で、眼下に広がる千波湖が偕楽園の池のように配されている景色は、桃源郷を彷彿させる1枚の絵画のようでもあります。眺めもよく、夏も涼しく過ごせていたのだろうな、と当時の人々を空想したりして…悲しきかな、雄大な景色の中でも脳内が忙しい現代人のわたし。

 

 

そんな現代人思考のわたしがここでオススメしたいのは、元祖エレベーターとも云える配膳用昇降機!KIMG0343
このように上に滑車がついていて…

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下の階から食事を運べるようになっています。

 

今でもラーメン屋さんなどで見かける「小型エレベーター」を江戸時代に考案した斉昭公、恐るべし…一説によると日本で最初にラーメンを食べたのは黄門様の呼び名でおなじみの水戸光圀公であったとか。違うとわかっていても関連付けたくなってしまいますよね…?

 

 

烈公の異名をもつ斉昭公ですが、その強烈な個性は政治以外のクリエイティヴ面でも発揮されたということを、好文亭は今に伝えているように思いました。「何か新しいものをつくりたい」と思っている方、もしかしたら好文亭にヒントが隠されているかもしれませんよ。