すべては絹のため〜なぜ高崎は
北関東最大のハブ駅となったのか?
〈群馬県高崎市〉

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長野と並んで関東圏のシルクの一大産地である群馬で、その生産されたシルクを運ぶために欠かせなかったのが鉄道の敷設です。群馬や長野で生産された「生糸」や「絹織物」などを横浜まで運ぶため、明治14年に日本鉄道株式会社が創設され、翌年の明治15年にはこの区間でもっとも重要な高崎線の工事にかかり、明治17年には上野~高崎間がぶじ開通しました。

 

すでに現在では7本もの路線が交わる北関東最大のターミナルとなった高崎ですが、今日このような鉄道網が形成されるに至った経緯にも「すべては絹のため」と言えるほどの深いつながりがじつはあったのです。

 

また高崎をハブ駅にして国を挙げての絹(生糸・織物など)輸送のための整備を急いだ理由にも、同じ群馬で世界遺産に認定された富岡製糸場の成立過程とほぼ同様の背景が・・。

 

ペリーの黒船艦隊による来航をきっかけにして江戸期・徳川幕府とともに長く続いた鎖国に終わりを告げた日本は、横浜港を始めとする全国5か所の港を開港します。同時に欧米列強の脅威を背景に「富国強兵」を急ぎました。その富国のための「殖産興業」として当時もっとも外貨を稼ぐ輸出品目だったのが生糸であり、それこそ国を挙げて全力でこれを推進したわけです。

 

写真:photolibrary

 


絹の歴史に見る光と影
世界遺産富岡と群馬の秘境〜南牧村
〈群馬県富岡市/甘楽郡〉

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群馬県の下仁田から長野県臼田に抜ける山深い街道の最後に位置する南牧村は、現在はすでに限界集落に指定されており、日本創生会議によると「消滅可能性」のある全国896自治体の中の1位というたいへんに深刻な問題を抱えています。ほとんど平地がない山間の斜面にへばりつくように形成された集落は、田畑に恵まれないぶん、養蚕や和紙の生産などの兼業で生計を立てていました。この辺りの建物は明治時代に建てられ、建物の特徴としては養蚕に適した「出張り」や和紙の乾燥に適した「カズカケ」などが見られます。

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上信電鉄始発の下仁田駅から富岡製糸場に向かいます。富岡製糸場が世界遺産となってから観光客も増え、ローカル線だった上信電鉄も今では利用者が増えて、鉄道ファン以外にも多く知られるようになりました。こちら下仁田駅は駅舎も車両も昭和レトロで懐かしい雰囲気。都会の電車とはまた違う鄙びたローカル線ならではのしみじみとした安閑な味わいがたまりません。

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世界遺産の富岡製紙場に着くと「富岡どんとまつり(2014年)」の最中。山車(だし)が東繭倉庫の中門にちょうどさしかかるところでした。車上には、ひときわ華やかな山車人形の姿が見えます。この人形は基本は飾りですが、地域や地方によっては鳳凰などの神獣や七福神などの神さま、歴史上の英雄や歌舞伎・能役者というようにバラエティ富んでいるのが見もの。富岡では隔年ごとのこの祭りは、今年(2016年)の秋で通算27回目となります。

 

写真:米山淳一

中山道と三州街道の交点であった「本棟造り民家」が連なる町並み
<長野県辰野町>

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三州街道は、三河湾で産出された塩を松本に運ぶために開かれたことから名付けられたが伊那地方を貫いていることから伊那街道とも呼ばれている。街道沿いにはいくつか宿場町があるが、訪れた小野宿はなかでも比較的大きな宿場町だ。

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電車の車窓からも確認できるが「本棟造り民家」が連なる町並み景観が小野宿の魅力でもある。本棟造り民家は長野県の松本を中心とした中信地区や、伊那地方など南信地区などで多く見られる木造民家の形である。切妻造りで緩やかな屋根こう配が大らかさを醸し出し、「雀おどし」または「雀おどり」と呼ばれる棟飾りが特徴で、その姿は堂々としており実に優美である。

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緩やかに国道がS字カーブを描く地点にさしかかると、軒が深く二階部分がせり出した「せがい造り民家」が連なる町並みが目に入って来た。よく見るとその先には本棟造りの民家がそそり立っている。折しも雨が降りだした。雨に煙る里山を背景に連なる本棟造りの町並み景観は、まるで墨絵の世界だ。

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宿場内の建物のなかでも、広い間口を持った小野家住宅(長野県県宝)は際立った存在である。1859(安政6)年の大火後に建造された大規模な本棟造り民家で、間口十間半、内部は四列に割って居住スペースを確保している。小野宿に本陣は無く、小野家住宅がその代わりを務めた。その証が式台玄関から続く二つの部屋と上段の間の設えである。清楚な庭も整えられていて品格を感じる。

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そばに寄って建物を仰ぎ見るとその重厚さに圧倒されてしまう。その上、繊細な出格子や猿頭を載せた軒などの意匠から伺える伝統の技に触れることができる。「雀おどし」や巧みな彫刻が施された懸魚も見事だ。「ころび」と呼ばれる手法で懸魚が街道寄りにせり出すように設えられていることで、建物を横や斜めの位置から眺めると一層ダイナミックに見えるから不思議だ。街道を挟んで本棟造りが睨み合っているように見える姿も小野宿ならではの特徴的な景観のひとつであろう。

 

写真:米山淳一

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「歴史鉄道 酔余の町並み」

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高松藩主も通った由緒ある門前町
〈香川県高松市〉

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高松城下から四国各地に通ずる五街道のひとつが仏生山街道で、代々の高松藩主が初代藩主菩提寺である法然寺に参詣するために使用したことから、別名「御成街道」とも呼ばれている。仏生山駅改札を出て左手の商店街を少し歩けば、仏生山街道と交わる交差点に出る。そこを右手に折れると、旧街道の風情が漂う町並みが続く。高松市では現在、本町通りであるこの街道を「仏生山歴史街道都市景観形成地区」として指定し、さらに法然寺までの約一・三キロメートルを「仏生山歴史街道」と位置付けている。

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ひっきりなしに行き交う車を気にしながら町を歩き始めた。街道の両側に江戸後期から明治、大正期の町家が並んでいる。連子格子と厨子二階(屋根裏のような天井の低い二階)、虫籠窓をそなえた典型的な町家が健在である。入母屋造り二階建て町家の軒の隅に、漆喰で仕上げた唐草模様の装飾が目についた。うだつでもない単なる装飾なのか? 不思議な装置である。

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街道は真っ直ぐに町並みを貫いて「ちきり神社」にぶち当たるようにして直角に右に曲がり、緩やかな前山坂をたどり法然寺山門に至る。ちきり神社の階段を途中まであがり振り向くと、街道の両側に伝統的町家がずらりと並んだようすを楽しむことができる。なんだか、法然寺よりちきり神社の門前町のような感じだ。

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街道には伝統的建造物を再生したしゃれた店舗も見られる。カフェやブティックそしてアンティーク。オールドアンドニューを実感できるところが仏生山街道の魅力でもある。とはいえ、看板建築の町並みに埋もれるように佇むうどん屋も味があるではないか。

 

写真:米山淳一


もっとも美しい村のひとつに数えられる
昭和村と田圃の中の美しい家
〈群馬県利根郡〉

群馬県の北部、新潟県との県境に近い、やや標高の高い場所に位置する昭和村は、日本百名山と謳われる武尊山や谷川連峰、榛名山などがそびえる隣接地に立地するため、眺望に優れ、日本でもっとも美しい村のひとつと言われています。また集落部では大型の養蚕民家が美しく保存されたまま点在し、歴史を残す家並みと自然とが見事に融和した景観をかたちづくっています。

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昭和村の中でも、ひときわ美しい養蚕民家です。切妻造り、高窓のついた屋根とせりだした外の渡し廊下、出梁(でばり)を持つ群馬県北部に特有の養蚕に適した建屋構造です。これら養蚕農家に共通する住まいの構造は、おもに1階が住居用、2階以上が蚕室用で、蚕室は蚕の生育に適した仕切りのない広々として風通しのよい板敷きの部屋になっているものが多いようです。

027この家の高窓。はっきり向こう側まで透けてみえます。地域によっては「気抜け」とも呼びます。スースーしていかにも風通しがよさそうですね。もちろん蚕の生育にとって何より大切なのがこの通気なのです。もともと野生の蚕は病虫害に弱く、飼育環境に左右されやすい生き物でした。それを製糸業が明治の国策(殖産興業)となり、質の高い蚕糸を安定的に供給することが求められた結果、蚕の生育に配慮された環境と設計がすみやかに整えられていったわけです。

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こちらもかなり大きな家。家というより、工場のようです。間口だけで十間くらいはあるでしょうか。家の規模から「豪農」と言っても良いと思います。とうぜんこんな住居を所有できるくらいですから、やはり当時、多くの人々が養蚕業によって富の恩恵に授かったのでしょう。歴史的にも国の掲げる殖産興業は蚕糸業によってほぼ成功し、明治初期の日本の国富を支え、生糸と蚕種の輸出によってもう一方の国策であった富国強兵までも実現させました。

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先で紹介した民家に劣らない大きな2階建の邸宅です。しかもなんともユニークなこの植木。右端のニュ~ッと筆のように太くカーブして伸びているのはコウヤマキでしょうか。屋根の上に通気孔となる高窓(越屋根または櫓とも呼ぶ)が3つ見えているのと、2階の外に張り出した「出梁(でばり)」の様子から養蚕農家の建物だとすぐわかります。

 

写真:米山淳一


山間の養蚕集落ならではの侘びが滲む
旧・六合村(くにむら)〈群馬県吾妻郡中之条町〉

004_r重要伝統的建造物群保存地区になった中之条町六合赤岩地区の農村の全景です。このあたりは以前は六合村(くにむら)といいました。養蚕の歴史は古く、江戸時代からすでに営まれていました。頑丈なつくりの養蚕農家の家が目立ちます。

005r赤岩で「サンカイヤ(三階屋)」と呼ばれる湯本家住宅です。幕末以降に建てられた養蚕農家の特徴を持つ家です。2、3階の正面のへりのところに外へと張り出した「出梁(でばり)」という空間を設け、養蚕の作業場や通路として利用していました。

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赤岩地区に数多く残る養蚕民家の中でも最大の関家住宅。もとは茅葺きの2階建だったのを明治期に養蚕を始めた際に3階建に増築しました。全国有数の養蚕地帯であったこの群馬県でさえ、現代に残るその痕跡は年々消えつつあり、赤岩地区に残っているこのような3階建の大型養蚕民家は貴重です。

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左の赤い屋根の家には養蚕農家に特徴的な換気のための「高窓」が見られます。一般的な養蚕農家の場合、家の1階を居住用に、2・3階を蚕室として活用していました。蚕室の上階は仕切の無い広々とした部屋で、採光と壮蚕期に必要な空気の通り抜けを良くするための「高窓」の設置や「出梁(外縁部に張り出したスペース)」を設け、蚕の生育に適した環境を整えていました。

 

写真:米山淳一

洒落た劇場とうだつの町家が交わる、
かっての交通の要衝
<徳島県美馬市>

江戸中期より藍や繭で栄えた脇町は、吉野川の水運を利用した積出し港として栄えた。家運の隆盛を顕示する象徴の「うだつ」が数多く残り、「うだつの町並み」の通称で呼ばれることも多い。

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かっては交通の要衝として繁栄した脇町であるが、いまは近くに鉄道の駅はない。穴吹駅で下車してバスに乗り換えて向かうことになる。バスはうだつの町並みに横付けの形で、道の駅「藍ランドうだつ」の駐車場に停車する。駐車場からうだつの町へのアプローチは、物資の上げおろしに使われた石積みの細いスロープをたどるとよい。特に吉田家住宅の藍蔵に通ずる石積みのスロープは一押しである。まさに川から上陸する気分で、うだつをそなえた町家が続く通りに到達することができるからだ。気がつくと、緑の山並みを背景にずらりと連なるうだつの町並みの真っただ中に立っている。

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どの町家にも漆喰で塗り籠めて瓦屋根を載せた、重厚なうだつが上がっている。袖壁とも呼ばれ、実は防火の役目を果たしているのだ。それらが連続する町並み景観は見事であり、脇町ならではの独特の歴史的景観を形成している。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているのもうなずける。

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大谷川沿いでは、しゃれたデザインの脇町劇場「オデオン座」が異彩を放つ。1934(昭和9)年に芝居劇場と映画館を兼ねた交流施設として建設され、山田洋次監督の松竹映画『虹をつかむ男』にも登場した。平成11年6月に修復が完成し、町指定文化財として一般公開されている。

 

写真:米山淳一

1685年に開削した運河で特産品を搬出!伊藤藩の財政を支えた港町
<宮崎県日南市>

油津は、飫肥と同じ日南市に属している。飫肥は城下町、油津は港町で、かつては特産の飫肥杉を搬出するために油津が使われていた。現在の油津は遠洋漁業の基地。マグロ、カツオの水揚げで有名だ。
油津の町を貫いて流れる堀川運河、藩の財政の安定をもたらす特産の飫肥杉を搬出する目的で、五代目藩主伊東祐実の命によって1683(天和3)年から約2年の歳月をかけた難工事の末、開削したもの。その堀川運河を中心に、町には歴史的遺産が多く息づいている。堀川運河に架かる石造りのアーチ橋・堀川橋(1903〈明治36〉年完成 国登録有形文化財)は、映画『男はつらいよ 寅次郎の青春』(平成4年)にも登場した。歴史的な石橋の存在感を堪能できる作品だ。今は空家となったロケ現場を眺めながら、石橋を渡って油津の町並みへ向かう。

 

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中町通りにさしかかると、赤レンガ倉庫があった。ここは市民のみなさんが歴史的遺産としてまちづくりの拠点にぜひ保存したいと熱望した結果、国の登録有形文化財にまでなっている。かって保存に関わられた市民のみなさんが目に浮かび感極まった。

 

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狭い通りから表通りにでると、三階建ての金物店や看板建築の商家などがそのまま残っていた。商家の戸が開き「どちらから? お茶はいかが?」と声がかかる。聞けば、この建物は町並みのお休み処で、NPOがボランティアで運営しているとのこと。みんなで作成した「油津らしさを活かしたまちづくり」を実践し、それが実を結んでいたのである。

 

写真:米山淳一