かつての舟運の拠点「伏見港」、竜馬もここから船に乗った
<京都府京都市>

京から大坂へ、そして瀬戸内を通って四国、山陽、九州、さらに海外まで、船が交通の主流であった時代、ここ伏見は都への玄関口として栄えた町である。淀川の舟運は古来から発達していたようだが、この地が河川港として大きく繁栄するようになったのは、豊臣秀吉による伏見城築城からである。秀吉は、御土居はじめ大規模な土木工事を行ったが、ここ伏見でも水害の多発する暴れ川であった宇治川ほかを改修し、伏見城の城下町を交通の拠点として整備した。
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京阪電車の中書島駅を降りると、おおよその観光客は酒蔵や寺田屋のある町中へ直進する。その人の流れとは外れて、左手(大阪方)へ向かうと、5分ほどであきらかに人口運河だとわかる宇治川派流へ出る。このあたり春には桜が見事だ。現在は宇治川へと接する手前が伏見みなと広場として整備されている。
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公園のなかを行くと、大きな構造物が目に入る。「三栖閘門(みすこうもん)」である。通称“伏見のパナマ運河”とも言うのだそうだが、1929年宇治川の堤防整備により本流側と運河側に水位差が生じたため、二重の水門を設けて船の行き来ができるようにしたものだ。東京荒川のロックゲートと同じような仕組みである。資料館が併設されているので、機能や歴史を知ることができる。近代化産業遺産に認定されている。
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三栖閘門は、十石船の見学コースにも入っているので、船で来る人も多い。
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「伏見みなと広場」のお地蔵さん。京都では町中のいたるところにお地蔵さんがある。8月には各町内会で地蔵盆という祭りが行われるが、どこでも普段からきちんと花が供えられており、地蔵信仰がまだ生きているようだ。
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偶然見かけた古い看板、“大日本最上薄口醤油”の特約店とある。関西圏の人でないと馴染みは薄いかもしれないが、「丸に天」は播州のマルテン醤油。関西で醤油・麺つゆといえばヒガシマルかマルテンが定番、ヤマサやキッコーマンなどダシの効かない関東のつゆで麺類はいただけない。
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もうひとつ、タバコ屋さんの看板。和文は、右から左へ。TOBACCOという表示もハイカラ。
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さて、港町といえば、花街はつきもの。ここ中書島界隈も、かつては遊郭街であった。多いときには、娼妓が約400人ほどもいたという。私が学生だった30年以上前には、まだその当時のものと思われる建物が残っていたが、いまでは探すのが難しい。とはいえ町には、そういう雰囲気が漂ってはいる。写真の建物は、いまは居酒屋のような営業をしているようだ。
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竜宮門と呼ばれる中国風の山門が印象的なのが、“島の弁天さん”とも称される「長建寺(ちょうけんじ)」。かつては大坂とを行き来した三十石船の船着き場(弁天浜)が、この門前にあったという。境内には、清めの水「閼伽水(あかすい)」が湧き出ており、船頭や遊女らに時を知らせたという大きな梵鐘が目を引く。
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三軒が一棟になっている住宅。屋根の高さがちがうのがおもしろい。こういう構造の住宅は京都や大阪に多いが、大阪でよく見かけるものとは雰囲気がちがう。京都といえば江戸や明治の町屋建築が注目されるが、こういう近代的な庶民の家も、なかなか京都らしい風景だと思う。
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このあたりで最も有名な史跡といえば、坂本竜馬が定宿としていた船宿「寺田屋」だろう。1866 年(慶応2年)1月24日の未明、ここ寺田屋で伏見奉行所の役人に襲撃された竜馬は、傷を負いながらもその場を逃れ、濠川沿いの材木納屋に逃げ込んだといわれる。風呂に入っていたお龍が異変に気づき、裸のまま二階へあがって急を知らせたという、なんともドラマチックな逸話が残っている。現在も宿泊可能だが、内部の見学(有料)だけでもできる。現在の建物は明治期に再建されたものらしいが、幕末の歴史物語に興味のある人なら一度は訪れてみたい場所にちがいない。
 
さて、伏見といえば、もちろん酒の町、後半は酒蔵街へつづく。

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レポーター

岡崎 聡

「町旅」編集部

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