近代文学の名品・小説「津軽」をめぐる旅
<青森県五所川原市ほか>

小説「津軽」の序編にはこうある。津軽の詳細を知りたければ、専門の研究家に聞けと前置きして、『私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。』と書いている。こういう言い回しをキザだと感じるかどうかで、太宰への好嫌は決まるのかもしれない。でも、この作品をはじめ「富嶽百景」「右大臣実朝」など、戦中に書かれた彼の文章は、過剰な自意識への拘泥が影をひそめ、いちばん洗練されていると思う。
トゲクリガニ
さて旅のはじめ、蟹田での夜にこういう描写がある。『N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでゐるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がつてゐるのに違ひないとお思ひになつた様子で、ご自分でせつせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかといふ、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。おそらくは、けさ、この蟹田浜からあがつたばかりの蟹なのであらう。もぎたての果実のやうに新鮮な軽い味である。私は、食べ物に無関心たれといふ自戒を平気で破つて、三つも四つも食べた。』
かつてこれを読んだとき、いくら蟹が好物とはいえ、三つも四つも食えるものか?ついタラバガニのようなものを想像してそう思ったが、この蟹はたぶんトゲクリガニだったのだろう。毛ガニよりも小さい。なるほど。
蟹田からは、陸路で竜飛へ向かう。そのとき宿泊した奥谷旅館は、いまは「龍飛岬観光案内所 龍飛館」として公開されている。太宰は、竜飛の風景を“凄愴”だと形容しているが、本州の北の最果て、一度は見てみたいところだ。
楠美家住宅
さて、津軽平野の中心地・五所川原は、小説では経由するのみだが、すこし散策してみよう。まずは、明治25年頃に建てられたという「楠美家(くすみけ)住宅」。茅葺・寄棟造りの民家で、外観・間取りともに建築当時の様子がよく残っている。秋田地方の建築様式が取り入れられているのも珍しいそうだ。
旧平山家
また、重要文化財に指定されている「旧平山家住宅」は、二百数十年前に建築された津軽最古の建造物。母屋は茅葺・寄棟造り、間口約33メートル、奥行き約13メートルで、7間の作業部、7間の居住部、3間の座敷という広さ。江戸末には大庄屋だったそうだが、当時の有力者の暮らしぶりがしのばれる。
ここから、津軽鉄道に乗って金木町へ。現在は「斜陽館」呼ばれる太宰の生家は、彼の父が明治40年に建てた豪邸で、和洋折衷の入母屋造り、明治期の重厚な木造建築として重要文化財に指定されている。
「斜陽館」
『黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立つてゐた。』幼年期の記憶について書かれた初期作品「思い出」の書き出しである。「津軽」で描かれるたけへの思慕は、じつはこの叔母への思慕を投影しているのではという指摘もある。幼年期の記憶というのは、だれにとっても自分自身の核を形成した大切な秘密として、抜き差しならぬものに感じられる。座敷の奥にあるこの大きな仏壇を見ると、おなじ「思い出」に語られる父の臨終の場面を彷彿とさせられる。
太宰が暮らした疎開の家
「斜陽館」ほど訪れる人は多くはないが、すぐ近くにある太宰治疎開の家「旧津島家新座敷」はおすすめである。というのも現在の所有者である白川公視さんの案内をぜひ聞いてほしい。この家を一般公開するようになってから太宰について学んだそうだが、訥々とした津軽訛りで語られる太宰のエピソードが想像力を刺激し、ファンならずとも思わず引き入れられる。
岩木山麓:菜の花畑
『「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く浮んでゐる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでゐる。』金木近くの小山へ遊びに行く途中で見た岩木山を、太宰はこう描写している。「富嶽百景」にもつうじる見事な風景描写だと思う。(写真は、鰺ヶ沢の菜の花畑から望む岩木山)
芦野公園
津軽鉄道の金木のつぎは、芦野公園という小さな駅。『金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然と』したと、こう小説に書かれている駅である。
十三湖
『浅い真珠貝に水を盛つたやうな、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでゐない。ひつそりしてゐて、さうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬといふやうな感じだ。』小説でこう描写されている十三湖。
小学校の運動会でたけと出会う有名なラストは、見事な演出がなされている。小屋掛けのなかで、二人とも無言のまま並んで運動会を眺める。『まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。』そう書かれている。このシーンを表した銅像がきっかけとなってできた“小説「津軽」の像記念館”では、後年「タケ」が太宰との思い出を語る映像も見られる。
小説「津軽」の像記念館
実際には、このとき太宰には同行者もあり、たけとの出逢いは、小説とはずいぶんちがっていたらしい。最後に太宰は『私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。』とわざわざ断っている。これは心の触れ合いについて書いたと、序編でも宣言した。紀行文のような体裁をとっているが、これは“小説”なのだと、またつい念を押したくなったのだろうか。あるいは真実と事実はちがうということだろうか。
・写真提供:青森県
・『  』で表示した小説「津軽」「思い出」からの引用は青空文庫より

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レポーター

岡崎 聡

「町旅」編集部

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