北前船の時代には交通の要衝として栄え、いまも貴重な伝統を継承する奥能登
<石川県輪島市>

百姓は農民、私たちはなんとなくそう思い込んでいる。しかし、それは史実ではないという、とても刺激的な論稿を残した歴史学者・網野義彦。日本は古くからの農業国であるという教科書的な歴史像に異を唱えた氏が、その独特の歴史像をつくるきっかけとなったのが、ここ奥能登の時国家の史料研究だったという。いわゆる水呑のことを能登では頭振(あたまふり)と呼ぶが、公式の資料では人口の過半が頭振=水呑とされ、田畑の少ない能登は貧しい地域だったというのが一般の歴史解釈であった。ところが時国家に残された文書史料を詳しく読み込むと、頭振=水呑と分類された人々のうち多くの人たちが、廻船業や商業に携わっていて巨額の利益をあげていただろうことがわかってきたという。つまり水呑=頭振は、耕地を持たないので貧しいのではなく、そもそも耕地を必要としない人を含んでいたというのだ。さまざまな異論があるようだが、とても面白い歴史観である。
上時国家
代々大庄屋を務めた上時国家の豪壮な建物は、農家建築様式の中に書院造りの手法を採り入れた江戸末期のものといわれる。鎌倉風の池泉回遊式庭園は、背後の山を借景に組み込んだ素朴かつ力強い巧みな造りである。
下時国家
江戸時代初期に分家された下時国家の建物は、上時国家より質素で農家的な特徴が多く、国の重要文化財に指定されている。
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海岸沿いの249号線を輪島市街へ向かうと、世界農業遺産に認定された千枚田がある。幾何学模様を描いて幾層にも重なる小さな田が、日本海をバックに広がる風景はとても美しい。
網野氏いわく、「これまで、能登は後進地帯だから古い単位が遅くまで使われ続けると説明されてきました。私はそうは思いません。確かに、能登の人々は、田地や畠について古い伝統を大切にしています。だから、“あえのこと”のようなものが残るわけですが、これを保守的・後進的と理解したのでは、能登のほんの一面しか捉えていないことになります。能登の人々の生活は、田畠にはあまり依存せずに、むしろ非農業的な、海や山の生業に力を入れて、それで貨幣収入を得ていたのです。」(【海民と日本社会】網野善彦・新人物文庫より)
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能登では古くから製塩が盛んであった。それは廻船に積まれ遠く秋田あたりまで運ばれたという。“揚げ浜式製塩”と呼ばれる伝統の技法が、いまも受け継がれているのは驚きだ。海水を砂の塩田に撒き、塩分を濃縮させ、漉し、大釜でじっくり煮詰める。職人の手作業で作りだされる塩は、とてもまろやかな味がする。
あえのこと
能登地域の農家に古くから伝わる農耕儀礼「あえのこと」は、“田の神様”に感謝を捧げる祭り。奥座敷に種もみの俵を据えて神座を設け、2股の大根2本と栗の木の箸2膳分を並べる。開放的な祭りではなく、口伝は家の主しか伝えられないなど、ひっそりと続いてきたものなので、各家によって異なる儀式は公開されないものも多い。ちなみに、「あえ」は「もてなし」、「こと」は「祭り」を意味するらしい。他の地方では消えてしまって久しい儀礼なのかもしれない。
輪島屋善仁 塗師の家
さて、輪島の伝統工芸といえば輪島塗。「輪島屋善仁 塗師の家」は、江戸後期から明治終期にかけての建築で、輪島塗の塗師文化を残す唯一の建造物。イナセな職人たちが作り出す輪島塗のような優れた文化が発展したのは、輪島がかつて廻船により全国各地と交流し、多彩な文化と接していた都市であった証拠だろう。
輪島市黒島
では、最後にめぐるのは輪島市「黒島地区」。集落の成立は16世紀前半といわれ、この地で最初に廻船業を始めた番匠屋善右衛門が加賀一向一揆の兵糧米を運んだ記録もあるという。藩政期には、北前船の寄港地として多くの船問屋があり、天領として大いに繁栄した。日本海に面した浜辺に沿って、黒い屋根瓦と板壁の家々が連なる町は、いまも明治初期の地割がよく残っており、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
角海家
黒島の代表的な廻船問屋であった角海家住宅(かどみけじゅうたく)は、往時は七艘の北前船を所有し栄華を極めたという。能登半島地震で全壊したが2011年に復元され、それ以降一般公開されていて、昔日の繁栄ぶりを偲ばせる収蔵品が多数展示されている。
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写真提供:石川県観光連盟

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レポーター

岡崎 聡

「町旅」編集部

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