『徳川江戸』に決定的な影響を及ぼした天海僧正の古巣、川越大師 喜多院
〈埼玉県川越市〉

喜多院は、天長七(830)年に、慈覚大師円仁が開いた天台宗の寺院。当初は星野山無量寿寺といった。本尊は阿弥陀如来。五百羅漢や1月3日のダルマ市で有名だ。寺号が喜多院となるのは、慶長四年(1599)家康の尊崇の厚かった天海僧正(慈眼大師)が住職となってからのこと。家康は天海の進言を取りいれ、無量寿寺再興を認め、寺号を北院から喜多院と改めた。
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その後、家康は喜多院を関東天台宗の本山と定め、厚く保護した。喜多院が、というよりは天海が徳川家と深い縁でつながったため、その恩恵に預かるかたちで喜多院も同様に大切にされたと見るべきだろう。
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家康と天海の関係が鮮明になるのは慶長十六(1611)年頃からで、当時の家康の行動を詳しく記録した『駿府記』にたびたび記述が見られる。天海が家康より篤く帰依を受けるのは、この頃頻繁に行われた家康の御前論議とも無関係ではない。御前論議は、ほんらい仏法の法門について論議問答をし優劣を競うためのものだが、家康はこれを僧侶の人材登用に活用した。そこで家康が最も感銘を受けた人物がおそらくは天海だったのだ。
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天海は、陸奥国に生まれ、天台宗で出家、近江の園城寺や南都で諸宗の教学を学んだとされる。家康と出会った頃には、禅や密教の祈祷なども習得して、天台宗を代表する学僧となっていた。喜多院にある慈眼堂(国指定重要文化財)には、厨子に入った天海の木像が安置されている。天海入滅の3年後(1645年)に、3代目将軍・家光の命により建てられた。
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東側にある山門は、寛永九(1632)年天海僧正の建立によるもので国指定重要文化財。川越大火を免れた唯一の堂宇は、境内にある堂塔の中で、もっとも古い建物となった。4本柱の上に切妻造の屋根が乗る四脚門と呼ばれるタイプ。本瓦葺。
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江戸城からの移築建造物であり、現在は拝観の入り口となっている庫裏(くり)。家康の寄進により整備された伽藍も川越大火(1638)により、山門以外が焼失してしまう。この時、天海は105歳。高齢のため江戸に近い寛永寺に身を移していた。3代目将軍・家光はこの天海が慈しんだ喜多院を、江戸城内の御殿を川越に移築することで再興を助けるという命を発した。
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本堂への渡廊下と紅葉山庭園。色鮮やかな日本的な美を堪能できる。
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遠州流の枯山水の庭園。遠州流独特の手法が各所に取り入れられ、関東らしい格式美を実現している。
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3代目将軍「徳川家光公 誕生の間」を包する客殿を望む。書院には「春日局化粧の間」があり、これらは太平洋戦争で江戸城にあった当時の建物が焼失した今、移築されて奇跡的に残った江戸城の貴重な遺構となった。『災い転じて福と為す』好例といえるだろう。(写真は、2016年12月撮影)
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全部で538体の喜多院・五百羅漢は「天明の飢饉」のあった年(1782)に川越北田島村の志誠(しじょう)の発願により、多くの協力者を得て約五十年間で造立された。日本三大羅漢の一つ。羅漢とは阿羅漢の略称で、仏教において尊敬や施しを受けるに相応しい聖者をいう。この群像たちは、人間味タップリ、愛嬌いっぱいで、釈迦の説いた“人間の真実の姿から目をそらさず、仏法の教えに帰依する”道筋にあたるのだろう。
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多宝塔は『星野山御建立記』によると寛永十五年九月に着工(翌年完成)。始めは、山門北側、白山神社と日枝神社の間にある古墳上に建てられていた。その後移築を繰り返して現在の場所に。移築の際に土台となった古墳土からは出土品も多く発掘されている。本瓦葺の方三間多宝塔で下層は方形、上層は円形で屋根は宝形造りの重層構造。細部に見られる工法は、桃山期の伝統的特徴を伝えるという。
 
写真:乃梨花

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乃梨花(「町旅」女子部)

ひとり暮らしの猫飼い人ゆえ、
長らくショートトリップ派・・でしたが、
最近は、猫を預けて遠くまで足をのばすこともしてます
(親戚の多い東北へ、行くことが多いです。➕日本酒党❤️)

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