江戸の防衛拠点の要。石垣造りに負けない土造りの巨大城郭だった佐倉城
〈千葉県佐倉市〉

豊臣秀吉が天下を取って覇権を握った当時の房総半島は、安房と南上総は里見氏が、下総は千葉氏がそれぞれ勢力を構えていた。天正18(1590)年に秀吉が相模国小田原の北条氏を攻めたさい、里見氏は豊臣勢に、千葉氏は北条勢につく。北条氏が敗れたため千葉氏は北条氏とともに滅び、両氏の領地は徳川家康に与えられた。やがて家康は、慶長8(1603)年江戸幕府を開く。
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慶長15(1610)年に江戸幕府・老中の土井利勝が佐倉に移封されると、利勝は千葉氏の没落によって廃城となった鹿島城を整備拡張し、その跡に近世城郭である佐倉城を建築する。頃合いは、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いと慶長19(1614)年大阪の陣のはざま。徳川氏にとっては未だ予断を許さない緊張が続く時期。それゆえ家康は利勝に命じて江戸城の東の要害として、佐倉城を急ぎ築かせたのだろう。
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佐倉城 イメージ画 (佐倉城再建促進協議会パンフより)
この城は、西に流れる鹿島川と南に流れる高崎川の間にある川からの高さ20メートルほどの段丘崖地形(鹿島台地)を天然の要害として最大限に取り込んでいる。城のある台地の北から西にかけては急崖で、南は台地の先っぽなので、攻めにくい。東側のみ地続きで、低い台地が筋違いに起伏する地形を空堀として巧く利用し、堅固な守りのラインを築きあげた。

佐倉城址公園に足を踏み入れるとすぐ見えるのが空堀(跡)。空堀とは、城の防御のための水のない溝のことをいう。土塁とともに城を外敵から守るために掘られた。利勝はこうして空堀と土塁を巧みに配置することで、石造に負けない強固な城を造りあげた。

佐倉城は、中世以来の伝統的土造りの城だが土造りの城にもかかわらず、石垣の城に等しい防御力を備えるといわれる。方法としては、まず土塁と堀の規模を巨大にし、土塁の限界とされる約45度の角度と関東ロームの滑りやすい土を武器にした。さらに広大で深い空堀を置くことで、侵入を防ぐ。水堀ならば飛び込んだり水中に隠れるのも可能だが、空堀だとそうはいかないため、心理的な抵抗が強まる公算だ。

佐倉藩歴代の城主の中で1人を挙げるなら、やはり堀田正睦(ほったまさよし)公になるようだ。幕末に幕府が開国政策に向けて舵を切ろうとするなかで、老中首座として日米修好通商条約の交渉等に多大な貢献をしたことでも知られている。

現在は何も残っていない本丸跡。当時四方が土塁で囲まれた本丸には、北西部に天守(御三階櫓)があり、1階部分が土塁に半ば懸かるような形で造られていた。見る場所によっては3階建にも4階建にも見えるため、風趣があった。残っていないのは惜しい。文化10(1813)年に火災によって焼失し、以後は再建されていない。
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天守の東には銅櫓が建てられていたが、明治維新後は老朽化が激しく、明治4(1871)年ついに取り壊された。本丸内には御殿があり、虎口は東と南の2ヶ所に設けられていた。佐倉城には本丸、二の丸、三の丸の要所に豪壮な櫓門が5棟あったが、残念ながらそのすべては失われている。

麻賀多神社(まかたじんじゃ)から佐倉城(現・佐倉城址公園)へ向かう道の途中、『大手門』跡に現在は碑が立つ。江戸時代に佐倉藩が参勤交代で江戸に向かう際には、大手門から出発し、近所の麻賀多神社にまず立ち寄って、道中の無事を祈願してから江戸へ向かうのが習わしだったそうだ。

現在の大手門のあたりは、一面の野原。ふだん都会のビルの狭間で1日の大半を過ごす身には、この一面原っぱで広々とした開放感と眺めは、新鮮でうれしい。

佐倉城址公園手前の美しいイチョウ並木。名所としても知られる。今年は紅葉の時期に台風や大雨が重なって例年よりもボリュームダウンだったのが残念だ。
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落ちている銀杏を袋いっぱいに詰めて持ち帰る人をいく人か見た。大粒の銀杏で袋いっぱいならば都内のスーパーで1000円程もする。次回はぜひ狙ってみたい。
 
写真:乃梨花

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乃梨花(「町旅」女子部)

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