会津の悲劇はここにも!妻、母、子全員を一度に失った西郷頼母と家老屋敷(会津武家屋敷)
<福島県会津若松市>

福島県の『会津武家屋敷』には、幕末の会津藩を支えた家老、西郷頼母(たのも)の屋敷が復元されています。西郷家は会津藩松平家譜代の家臣で代々家老職を務め、1700石取りの家柄でした。ただし、西郷家の最後の家老となった頼母の半生は不運と苦難の連続といえます。
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文久2年、幕府から京都守護職就任を要請された藩主・松平容保(かたもり)に対し「火中の栗を拾うようなものだ」と強く辞退を進言したために容保の不興を買い、一時は家老を解任、蟄居(ちっきょ)という処遇にまで落とされました。頼母は将来を見通す高い見識を有していましたが、藩主に建議するも用いられず、その結果、政局は藩にとっていよいよ困難な状況を招きながら、頼母の憂慮が現実となっていきます。
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その頼母の復元された屋敷は、けやき、ひのき、杉材などを用い、和様建築の粋を集めて築造されました。敷地面積2400坪、建築面積280坪にも及ぶ壮大な屋敷です。表門には、腕木門を配置し、藩公や大名などの上級武士はこの表門から迎えたといいます。
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表門をくぐると、屋敷の表玄関があらわれます。少し丸みを帯びた、むくりといわれる屋根がここでもみられます。この表玄関も公式用のもので、玄関幕にならぶ家紋は保科家の家紋である九曜紋です。維新後に頼母は保科姓に改名していますが、もとは西郷家は保科家の分家にあたるため、九曜紋の使用も許されていたそうです。
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表玄関は式台玄関(式台のある玄関)になっており、この屋敷の主人である西郷頼母の妻・千重子をモデルにした人形が出迎えます。千重子は良妻賢母のほまれ高く、会津婦人の鑑と伝わる人物。しかし仮借ない歴史の流れから千重子とその一族は、不本意な末期を強いられます。戊辰戦争が始まり、西軍の城下侵入の際に留守宅を預かる家老の妻として自ら采配をふるい、一族21人と共に自刃し果てました。この時、家老の頼母は城中にいました。胸中いかばかり・・であったかは、想像を絶します。
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番所には甲冑と毛槍(大名行列の威勢を示すために先頭の方で振り歩く、先端に羽毛の飾りをつけた槍)が陳列展示されていました。番所は、屋敷内警備のために人がつねに2〜3人詰めていたと言われる場所。また、同時に、家臣達の出入口としても使用されていたそうです。
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御成の間(おなりのま)は、藩主や上級武士など身分の高い人専用の特別室。中は書院造りで書院壱の間、次の間、茶の間、鎖の間などから構成されています。書院壱の間は、格式の高い部屋であることを示す高麗縁(こうらいへり)が畳のふちに用いられ、ひと目でそれとわかるようになっています。
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現在この御成の間には、従者を従えた藩主・松平容保を迎える頼母と千重子の人形が並び、臨場感あふれる場面を演出しています。おそらく容保が京都守護職を任ぜられる以前の穏やかだった日々の1コマを再現したものでしょう。
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38の部屋の中には、台所・配膳の間・料理の間・土間など、屋敷内の食をつかさどる部屋も見られ、当時の道具や調度が多数展示されています。
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戦争という不条理に抗えず尊い多くの命を失った会津。しずかな悲しみが薄く積もる雪のように今でもこの地を覆っているかのようです。
 
写真:乃梨花、(1番目のみ)福島観光フォトライブラリ(ふくしまの旅)より

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