都心からすぐ行ける!見ごたえたっぷりな名城『小田原城』へゆく
<神奈川県小田原市>

小田原城といえば「北条氏」の名前がまっ先に思い浮かぶほど、戦国時代の事実上の幕引きともなった豊臣勢との「小田原合戦」は有名だ。その小田原合戦に備えて城を囲む全長約9kmにも及ぶ総構(そうがまえ)を造らせた北条氏。当時は関東一円に広がる強大な権力を保持していた。ならばその城もさぞかし立派な天守だろう・・と思いきや、じつはこの時には、まだ天守も高い石垣もなかったというから意外だ。
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これは小田原城に限らない。戦国時代の末期には、まだ関東の城には天守も高い石垣もない時代だったという。秀吉の小田原攻めで心理戦に於いて最大の効果を上げたとも伝えられる『一夜城』の出現(じっさいは増築に約80日かかったが、完成すると、周囲の樹木をいっせいに切り払って、まるで一夜にして城が築かれたように見せた)に、小田原勢は戦意を喪失したという。この『一夜城』には、それまで関東の城にはない「天守」があった。そんな城を1日で築いたように思わせたのだから、相手の動揺とショックはいかばかりか・・ガックリと意気消沈する姿が目に浮かぶようだ。
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そんな歴史ロマンを回顧しつつ、小田原城址を順に見て回った。馬出門(うまだしもん※内側から撮影)は、二の丸正面に位置する木造の門。高麗門形式の馬出門と内冠木門(うちかぶきもん)と土塀で周囲を囲む枡形門(ますがたもん)の構造を持つ。馬屋曲輪(うまやくるわ)へ通じる門ということで名付けられたとみられる。
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住吉橋を渡って、水堀をはさんで眺めた馬出門の遠景。今にも主人(あるじ)を背に乗せた馬が姿を現わしそうだ。
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銅門(あかがねもん)は、馬出門から馬屋曲輪を抜け、住吉橋を渡った二の丸の正面の位置にある本丸へと通じる大手筋に設けられた枡形門(※)。渡櫓門の大扉には「銅門」の由来となった銅板の装飾が映える。※枡形門=渡櫓門(わたりやぐらもん)、内仕切門(うちじきりもん)と土塀により枡形に囲んだ門のこと。
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威風堂々という形容がふさわしい銅門。平成9年(1997)に復元された。土・日・祝日限定で内部を公開しているので、機会があればぜひ覗きたい。
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本丸へと続く『本丸東堀跡』の冬枯れの景色。乾いていながらも情景的だ。
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昭和46年(1971)に再建された小田原城本丸の正門にあたる常盤木門(ときわぎもん)。最も大きく堅牢に造られている。2つの多聞櫓(たもんやぐら)と渡櫓門から成る桝形門で、前面に「坂口門」を持つ。門の傍わらの「巨松(おおまつ)」にちなんで名付けられたそうだ。
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平成28年5月に大改修を終えた小田原城天守閣。江戸時代の天守模型(東京国立博物館蔵)をもとに当時の姿に復元された。美しくそびえる雄姿は小田原市のシンボル。
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内部の展示も一新され、美術館のような美しい空間構成になっている。城郭内にいるのを忘れ、まるで美術鑑賞をしに訪れたかのように錯覚するほど!
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二の丸御殿跡。江戸時代の小田原城には、将軍の旅宿専用の「本丸御殿」と、藩主の居館や行政を行う政庁としての役割をもった「二の丸御殿」の二つの御殿があり「二の丸御殿」は、三代将軍家光が上洛のおり小田原城に止宿した寛永年間(1624〜44)の頃が最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものだった。元禄16年(1703)に起きた大地震により「二の丸御殿」も倒壊し炎上。再建され、徐々に増築されたものの、以前の姿には到底及ばなかったという。
 
写真:乃梨花

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