源頼朝も立ち寄った!伝説と歴史に縁取られた岩屋跡。〜達谷窟毘沙門堂
〈岩手県西磐井郡〉

達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)は、桓武天皇より征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が801年に壁下方の岩屋に建てた堂がはじまりだ。108体の毘沙門天を祀り、京都の清水寺の舞台を模して九間四面の精舎を建立したと伝えられる。伝説では、田村麻呂が蝦夷の首長『悪路王』を討伐した場所だ。
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荒々しく切り立った崖を背にダイナミックな臨場感を漂わせ、迫力ある美しさで見るものを圧倒する毘沙門堂。だがその成り立ちを見るとき、伝説とは逆で、朝廷による蝦夷“迫害”が真実なのではないか?とさえ思う。歴史の他の例にもれず、敗者(蝦夷の長)を悪(悪路王)とし、勝者にあたかも理(正義または大義)があるかのように、見せる必要が(支配側には)あるためだ。
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弐の鳥居。壱の鳥居をくぐり(すぐ脇に拝観料を納める案内所がある)、つぎにこの鳥居をくぐって、奥に見える参の鳥居をくぐり抜けた先に毘沙門堂がある。
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姫待不動堂。“伝説”では、悪路王が京からさらってきた姫君たちを閉じ込めたとされるが、おそらくはこれも朝廷側にとって都合のよい蝦夷に対するネガキャンの一環と疑う。野蛮で残忍な種族(鬼を連想させる)ということにしておけば、民は征伐(殺戮による侵略)に躊躇しないからだ。それはさておき、こちらのご本尊は、桂材の一木彫で全国でも希なる大師様不動(だいしようふどう)の大像。製作年代は平安後期のものとされる。
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この姫待不動堂は、もとは達谷西光寺(たっこくせいこうじ)の飛地境内にある姫待瀧(ひめまちだき)にあったもので、平安時代後期に奥州藤原氏2代目当主である基衡(もとひら)により再建された。それより600年あまりを経た寛政元年(1789年)に、堂宇の腐朽により、この地に移されたそうだ。(ちなみに姫待瀧と鬘石は、ここから遠くない今でも同じ場所にある。)
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明治初年に廃仏棄釈でいったん破棄された金堂は、古くは講堂とも呼ばれていた。延暦二十一年(802年)に達谷川対岸の谷地田に建てられたものは、延徳二年(1490年)の大火で焼失し、江戸時代には現在の場所に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていた。現在のものは、平成七年に完成してまだ新しい。本尊は眞鏡山上の神木の松で刻まれた四尺の薬師如来。
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蝦蟇ヶ池辯天堂(がまがいけべんてんどう)は、蝦蟇ヶ池の中島にある。境内からは、平安末期のかわらけ(素焼き土器・皿)が数多く発掘されており、池の石積み護岸工事跡も発見されている。堂内に祀られた弁財天は、慈覚大師の作と伝えられており、過去の大火にも焼失を免れた。
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蟇ヶ池辯天堂を上から睨むかたちで、鎮座している達谷窟毘沙門堂。
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創建以来、たびたびの焼失を繰り返してきた毘沙門堂。現在の堂は五代目となる。文治5年(1189年)には、源頼朝が奥州合戦の帰路、鎌倉に戻る途中に参詣したことが『吾妻鏡』に記されている(『吾妻鏡』では達谷窟はまだ「田谷の窟」である)。ご本尊には、慈覚大師の作と伝わる吉祥天と善膩子童士を秘仏として奉安している。
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だまし絵のようで見分けにくいが、写真の左上あたりに見えるのが岩面大仏。この岩に彫られた北限の磨崖仏は、前九年・後三年の役で亡くなった敵味方の霊を供養するために、源義家が馬上より弓弭(ゆはず)で彫った、との言い伝えがある。明治29年には胸から下が風化により崩落してしまった。
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帰りは、壱の鳥居から『御神域(境内)』の外へ。いまも静かな里山の風景のなか、蝦夷たちの思いが、いまでも漂っているようだった。
 
写真:乃梨花

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乃梨花(「町旅」女子部)

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