日本遺産の物語

会津の三十三観音めぐり〜巡礼を通して観た往時の会津の文化
〈福島県(会津若松市・下郷町・磐梯町・会津美里町ほか全17町村)〉

■会津さざえ堂(会津若松市)
奇妙奇天烈、摩訶不思議。そんな言葉がぴったりの「会津さざえ堂」は、ひと目見たら忘れられない強烈なインパクトの建物だ。江戸時代後期、関東から東北にかけて作られた「さざえ堂」の中でも、ここは画期的!理由はその「二重らせん」の構造にある。入口から斜路を最上部まで上ると、太鼓橋をまたいで、往きとは別の斜路を降りて出口から出る。この狭い塔の中で往路と帰路が完全に分かれているのは驚きだが、そのからくりがまさに「二重らせん」にあるのだ。
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これら「さざえ堂」は、江戸時代の中期に国中で巡礼が大ブームとなり、なかなか巡礼(の旅)に出られない庶民のための『簡易巡礼施設』として考案されたらしい。江戸・本所にもあった「さざえ堂」の1つ羅漢寺観音堂(現在は焼失)は、ここ会津よりも古いものだった。
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この会津さざえ堂では、明治の廃仏棄釈まで関西地方の三十三番札所の観音様が一体ずつ祀られており、お堂の内部を巡るだけで三十三観音巡りが出来るしくみだった。つまり上って下りてくるだけで西国の三十三ヶ所を巡礼する代わりになったのだから、なによりたいへん安上がりで庶民の家計にも優しいしくみだったのだ。
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入り口の唐破風の向拝に見られる龍の彫刻。江戸時代になってから向拝の彫刻に龍などが多く見られるようになったという。
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向拝をくぐると、観音様の恵みが海のように広大である、の意の「福聚海」の額が掲げられ、柱には正式名「円通三匝堂(えんつうさんほうどう)」の札が見える。ちなみに〈匝〉は巡るという意味を持つ字で、三匝は三回廻るの意味。ここでは上り下りを各1周半(じっさいは一周と四分の三)ずつ、堂内を計3周廻るため、三匝である。
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建物の中に足を踏み入れると拝観者を出迎えるのは、この建物を設計した郁堂(いくどう)禅師の像だ。寺に伝わるところによれば、二重のこよりをよった形からこの二重螺旋の堂の構造を思いついたという。ただし二重螺旋じたいは当時すでにオランダ船によって輸入されていた洋書に図画が載っていたため、過去にどこかで目にした可能性も考えられる。
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内部は、独特な傾斜をもつスロープになっている。うねるような床である。体が自然に上へと導かれるような不思議な感覚をおぼえる。あるいは、さざえ堂という木造を装った(?)生き物内部の消化器官に絡めとられてしまったのかもしれない。一方で宗教的な儀礼の気配も宿している。ふと気づくと、空間がいつしか心に作用し、内なる旅をしていることに気づく。二重螺旋と匝の神秘のなせる業なのだろうか。
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最上部の六角形の折り上げ天井には、千社札が所狭しと貼られている。折り返し地点にかかる「太鼓橋」は何かの象徴のようだ。ひょっとしたら、この世とあの世をつなぐ橋だったのかな・・・
 
■左下り観音(会津美里町)
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会津三十三観音堂の21番目の札所、左下観音堂(さくだりかんのんどう)は、天長7年(830)僧徳により建立された。山の中腹の岩をうがって構築した見事な三層閣の構造で、京都の清水寺ともよく似ている。(平成26年に県重要文化財に指定。)
 
■大内宿(下郷町)
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大内宿は江戸時代に会津城下と下野の国を結ぶ下野街道(しもつけかいどう)の宿場町としてにぎわった。当時この街道は会津藩主の18回にも及ぶ江戸への参勤と江戸廻米の輸送にも使われた重要路だった。
 
■慧日寺(磐梯町)
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慧日寺(えにちじ)は、平安時代の初期に南都で法相教学を学んだ後に都を離れ、理想の修行の地を求めてはるか東国へと錫を振った稀代の学僧「徳一」よって開かれた寺院。創建以来、栄枯盛衰を繰り返しながらも大きく繁栄し、ながらく会津仏教文化の中心的役割を担ってきた。廃仏毀釈により明治の初めに廃寺となったが、昭和45年に寺跡が国の史跡に指定されて以来、金堂につづき中門が復元されるなど、創建期の姿を徐々に蘇らせている。
 
写真:乃梨花、(さざえ堂以外)ふくしまの旅 観光フォトライブラリより

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乃梨花(「町旅」女子部)

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